#83 チャック先生
ハワイ大学近くの
ホノルルの山側に、
セントルイスハイツと呼ばれる
丘陵があります。
丘陵の麓近くには
カトリック教会系の
小さな私立男子校が、
ダイヤモンドヘッドを
一望に見渡して建っています。
隣接の同系の私立大学と並立し
ハワイには珍しいヨーロッパの伝統の
赤い屋根と白い壁の
チャーミングなキャンパスです。
ワシントン州からやって来た
チャック先生が
このセントルイス校で
一教師として教え始めたのは
1970年代のことでした。
元々言語に優れ、
外国語を勉強するのが大好きだった
若きチャック先生は、
大学ではロマンス言語を専攻し、
フランス語、スペイン語
後に、ロシア語、日本語まで
教えたそうです。
いつもネクタイをするか
ハワイの正装のアロハシャツを着て、
礼儀正しく生徒たちと接していた
チャック先生は
古き良き時代の教育者でした。
毎朝、坂道をゆっくりと上って
教室まで行く途中、
フィリピン系、
中国系、
白人、
ポルトガル系とハワイらしく
人種が混じった少年たちの
登校とよく一緒になりました。
先生は少年たちに一人一人
「グッドモーニング、ミスターXX」
と話しかけました。
眠い盛りの生徒が
廊下で転寝をしていると
自分の教室に招き入れ、
他の少年たちと交流を促しました。
先生は、
多感な世代の少年たちに
広い世界へのチケットである
外国語への関心を持ってもらう事を
教育の使命としていました。
美しいハワイに
生まれ育った少年たちでしたが、
もっと広い世界を見るように
多言語を話す人々の文化を学ぶようにと
根気よく教え続けました。
チャック先生はこうした教師生活を
パーキンソン病が悪化して
引退が余儀なくなるまで
47年も続けたそうです。
卒業生は、
ハワイや他州の大学に進学し、
政治やビジネスや教育の
リーダーとなっていきました。
私がチャック先生にお会いしたのは
シニアの方の為のコミュニティの
椅子ヨガのクラスででした。
お会いした時はすでに
セントルイス校は退官され
パーキンソン病と闘いながらも
健康維持のために
介護士の方と
ヨガや散歩をする生活でした。
日中は、欠かさず、
ニュースで時事問題を見ていました。
ご近所という事もあって、
時々多めにできた日本食を
差し入れる事もありました。
ノックをすると
ゆっくりとドアが開き、
「よく来てくれた」といつも
満面の笑みをたたえて
迎えてくれるチャック先生でした。
おっそ分けの入れ物を受け取って、
礼儀正しくお礼を言うと、
チャック先生は必ず
一言二言、品のよいジョークを
おっしゃるので、
私はすぐチャック先生の
ファンになってしまいました。
椅子ヨガの間も
不自由な体でも
一生懸命手足を伸ばそうとして
努力を怠りません。
そして、
クラスを笑わせるジョークを
これまた品よく、一言二言言うのです。
クラスメートたちもクラスを教える私も
チャック先生から
元気を沢山もらい続けました。
チャック先生は一度も結婚せず、
自分の子供をもうける事はなかったと
聞きました。
先生にとっては50年近く教えた
何千人の少年たちが子供だったのです。
退官近くの時期には
日本や韓国からの留学生に
英語を教える事もして
外国人学生が
ハワイの生活に慣れる事ができるように
したそうです。
根っからの教育者でした。
昨日は76歳で永眠された
チャック先生のご葬儀で、
私も末席に参列させていただきました。
セントルイス校内のカトリック教会の中は
ハワイの花と歌と、
ハワイのチャントと、
色とりどりのアロハシャツを着た
教え子たちと家族で溢れていました。
まだ20代30代の青年たちもいれば、
孫がいる50代60代の卒業生もいました。
皆チャック先生の教え子たちです。
葬儀の場で、チャック先生が
ハナイと呼ばれるハワイの制度で
6人の少年たちを「養子」にした事を
知りました。
少年たちは先生から経済的援助を得て、
高い私立校の学費を賄い、
大学に進学できたのだそうです。
彼らはチャック先生を
「パパチャック」
「グランパチャック」
「シニアバセット(チャック先生の苗字)」
「ミスターB」などと呼んでいました。
神父様たちが祈りをささげ
讃美歌が歌われ
献花が終わった後に
1人の老女が壇上に立ちました。
フィリピン系と思われる
肌の色が赤銅色の方でした。
その女性はマイクに向かって
「私はこんな席で
話をしたことはないんだけれど」
と前置きして話し始めました。
「でも、私には言うべき事があります。
それはチャック先生の事です」
かすれた声の老女は
椅子席に座っている中年の男性を
指さして言いました。
「あれは、私の長男のデリックです。
チャック先生の教え子です。
そして、チャック先生の
ハナイの息子です。」
その中年の男性は
奥様とみられる女性と
十代の子供たち二人と寄り添って
子供たちの祖母である老女の話を
頭を垂れて聞いていました。
「私の家族はもともと
カウアイ島に住んでいる農家で
普通なら都会の私立学校に息子を
やれるような家庭ではありません。
でも、私は教育を受けさせなければ
息子の一生のうだつは上がらないと
思いました。
フィリピンからの移民の暮らしは
楽ではなかったけれど
借金をして、カトリックの学校の
セントルイス高校にいれたのです。
この学校の卒業生は良い仕事に就けると
教会で聞いたからです。
学費は何とか出せましたが、
私立の学校は他にもお金がかかります。
息子のデリックは、
ホームシックになっても
飛行機に乗ってカウアイ島に帰る余裕など
ありませんでした。」
十代の田舎の少年が
家を離れて都会暮らし、
どんなに心細かったことでしょうか。
チャック先生は、
このお母さんの息子のデリック君の
学費をサポートしたばかりか、
長い週末になると
カウアイ島の自宅に帰れるように
飛行機代を出してくれたというのです。
それも一回二回ではなく
在学中、毎回だったそうです。
これで少し余裕ができたデリック君の
お母さんは、
次男もセントルイス校に入学させることが
できました。
それはデリック君の隣に座って
同じように首を垂れて聞いていた
もう少し背の高いやはり中年になった
男性の事でした。
「あれが、次男と次男の家族です。
長男も次男も
二人ともちゃんと仕事について
家族を持ってやってます。
チャック先生のおかげです」
小さな老婆はプライドと感謝で
胸がいっぱいになったのか、
マイクの前で
泣き伏してしまいました。
二人の息子さんも
目頭を押さえています。
チャック先生の高校教師の給料で
こんなことが
簡単にできたわけではありません。
先生は、教える仕事が終わると
ワイキキの宝石屋さんにアルバイトに行って、
そのお金を密かに生徒たち、
ハナイの息子たちの
学費や経費に充てていたのです。
カウアイ島の老女の話が終わると
もう一人の年配女性が
マイクの前に立ちました。
白いレースのトップスの
おしゃれな感じの
キャリアのある方に見えました。
「ユー、ボーイズ!」
その女性は皆を見渡しながら
落ち着いた声で話し始めました。
「皆さんは、
私の事は知らないでしょう。
でも、私は皆さんの事を知っています」
この人も先生かなと思って聞いていると
チャック先生の写真の方を見て、
「もう話してもいいわよね」
と、まるで二人だけで
会話をしているように言うのです。
「私は長年この学校で
事務員をしていました。
だから、
どの生徒の事もよく知っています。
チャックは何度も生徒たちを
海外研修に引率しました。
いくらセントルイス校とは言っても、
息子を海外に旅行させるのは
親御さんも経済負担が大変です。
行きたくても
いけない生徒は沢山いました。
生徒が8人集まると先生の旅行代は
無料になりました。
16人集まると引率の先生には
引率代がただになるだけでなく、
報酬も出ました。
勿論もっと集まれば報酬が増えます。
チャックの引率するグループはいつも
満席状態でした。
でも、
チャック先生は
一度も報酬を受け取った事は
ありませんでした。
報酬があれば、その分一人でも
多くの生徒の
旅行代に振り当てたのです。
それを知っていたのは
事務をしていた私だけです。
先生は誰にもこのことを言った事は
ないはずです」
チャック先生は
6人のハナイ息子たち
11人のハナイ孫たち
何百人もの教え子や
ファンに囲まれて、
写真の中で静かに微笑んでいました。
「まあそう大仰に言う必要はないよ、君」
チャック先生は
そう言っているように見えました。
そして、
今にも品の良いジョークを
いいたげな表情で
「大好きな事ができた
人生だったな。
若い人達が良い人生に
旅立つ手伝いができた。
ありがたい人生だったよ」
そんな風にも言っている気がしました。