#98 壁
100年以上前、
ドイツ軍とイギリス軍は、
極寒のベルギーを舞台に
血みどろの塹壕戦を
繰り広げていました。
第一次世界大戦が開始した頃のお話です。
雨と雹で凍った泥水に
何日間も腰までつかりっぱなしの
両国の兵隊たちは、
銃撃で死亡した仲間を
手厚く葬ることはおろか、
降り続く雨や雪で崩れていく塹壕の
修理すら、ままならない状態でした。
時々、肉眼で見える至近距離で
塹壕の修復をしている時、
暗黙の了解で
お互いが攻撃をし合わない事もありました。
敵味方とはいえ、
お互いがどんなにみじめな苦しい
状態でいるかを
知っていたからです。
1914年のクリスマスの日の
こんな出来事が
歴史の本に書かれています。
その日お昼ごろ
英国の兵隊たちは
「聖しこの夜」の歌声が
敵側から聞こえてくるのに
気が付きました。
英語のSilent Nightは
ドイツ語ではStille Nacht、
歌声ももちろんドイツ語です。
そのうち、片言の英語で
「君たちも歌え」という声がしました。
イギリス兵たちは、
濡れて凍える体を温めながら
英語の歌を返しました。
お世辞にも
上手とは言えない歌声でしたが、
疲労困憊した兵隊たちにできる
精いっぱいの歌声でした。
ドイツ側の塹壕から
次々にクリスマスキャロルが
聞こえてきました。
言葉は違っても、
歌のメロディーは
イギリス兵たちも
子供の頃から聴いている
懐かしい歌でした。
銃撃戦ならぬ
クリスマスキャロルの歌の交換が
暫く続きました。
「英国人たちよ。メリークリスマス!」
ドイツ兵がそう呼びかける声が聞こえました。
「今日は攻撃は、なしだ」
どちらかともなく
クリスマスの停戦が提案され、
銃弾の音も、歌声も
一時、終わった戦場に、
この時を利用して
斃れていった戦友たちの
墓穴を掘り、十字架を立てる
姿が見え隠れしました。
この時の様子が古い写真に残されています。
そしてどちら側からともなく
塹壕の上に
ランプとヘルメットが並べられ
そこにろうそくの灯が何本かともされました。
ランクの上の将校たちが
数人ずつ互いの塹壕から出ると
ノーマンランドと呼ばれる中立地帯に
歩いて行きました。
ドイツ人たちは、
煙草、軍服のボタンなどをギフトに、
イギリス人たちは、
イギリス煙草と
とっておきのクリスマスプディングを
ギフトとして差し出しました。
クリスマスの日聖歌を歌い、
自主停戦でギフト交換した
英国と独国の兵士たちは
その後サッカーの試合をしたのだそうです。
100人もの参加者があったという
証言があるそうです。
この話は、
軍隊の歴史に確証はなく、
兵隊たちの私信が伝えた
現代の伝説です。
後にこれを知った両国の司令官は
当然ながら怒り狂い、
それ以降の自主停戦は
軍法会議送りそして銃殺の罰則が
課される事になりました。
停戦が休戦に発展する事は
ついにありませんでした。
しかし、
歌を歌い、ギフトを交換し
サッカーボールを
一緒に追いかけた兵隊たちは、
それ以降、
互いに相手に銃口を向ける事を拒否し、
前線から僻地に飛ばされてしまったという
記録があると伝えられています。
時代は進んで第二次世界大戦中。
ポーランドのある町かどを
ユダヤ人の男の子が小走りに
家路に向かっていました。
戦火が激しくなり、
周りからユダヤ人家族が
次々と消えていく毎日、
少年はその日
運悪くドイツ軍の兵隊たちが
やってくるところに
出会わせてしまったのです。
これは戦争に生き残り
そののちアメリカ移民として育ち、
心理学の先生となったある教授の
幼い頃の思い出話です。
少年が見ると、その中の数人は
黒い軍服を着ています。
たった10歳だった男の子にも
黒い軍服はナチス警察のゲシュタポ。
泣く子も黙るという
恐ろしい軍人であることは
知っていました。
寒い冬オーバーで隠されてはいても
その下の穴のあいたセーターには
ユダヤ人とわかるダビデの星が
黄色く大きく縫い付けられていました。
数人のゲシュタポのうち
背の高い一人の軍人が
つかつかと少年の所に
寄ってきました。
すくみ上っていた少年に
歩み寄った軍人は
ドイツ語で何か話しかけてきます。
そして、少年の横に跪くと、
不安と恐ろしさで硬直した少年の
小さな痩せた体を
力いっぱい抱きしめたのです。
さらにあろうことか、
目に涙をうかべながら、
懐の紙入れの中に
丁寧に包まれていた
写真を取り出しました。
ドイツ語は分からなくても
その写真が、その人の息子である事が
分かりました。
ユダヤの少年とその息子さんは
同じ位の年齢で
茶色い巻髪や、細く繊細な顔などに
共通点がある事が見て取れました。
恐らく
ドイツの軍人は
ユダヤの少年を見て、
心から懐かしく感じたのでしょう。
抱きしめたままの少年に
仕切りに何か言葉をかけると
愛おし気に少年を見つめ、
最後は小さなお菓子の袋を取り出して
少年に与えました。
空襲の中を走って帰った少年は、
残念ながらそのお菓子を落としてしまい、
口にする事はありませんでしたが、
その時の不思議な経験を
何十年もたってからも忘れることは
なかったそうです。
私はこの二つのお話を聞いた時、
今アメリカが作り上げようとしている
「壁」の事を考えました。
現大統領が選挙公約し、
アメリカ政府一時閉鎖につながった
アメリカとメキシコとの間に
建てようとしている
長くて、高くて、頑丈な壁の事です。
政治的な思惑の正否はともかく、
実際の壁は、心の中の壁が
具体化したものである事が
多いように考えます。
昔から人間は
一つの地域と
もう一つの地域との間に
一つのグループと
もう一つのグループの間に、
いろいろな壁を作って来たのだなあと
思います。
中国の万里の長城から始まって、
中世では城壁やお濠など
近代になってからも
ベルリンの壁、
サウジアラビアとイラク国境の壁、
相手が押し寄せてこないように、
そして壁のこちらの安全を守るために
いろいろな壁が立てられてきました。
でも、
壁が作られると
その壁はいつかは必要がなくなって
取り壊されるか、
廃墟となり、
時には観光名所となったりします。
人間はこうした壁を
幾つもつくって来たばかりでなく。
知らず知らずのうちに
相手が押し寄せてこないよう、
自分を守るように
心の中にも
壁を作っているようにも思います。
自分を守る事は
大切であるのは当然ですが、
それが、いつしか相手を
受け入れられない壁となり、
自分と相手、
自分の属するグループと
属さないグループとを
分断する壁となってしまって
いないだろうかと考えました。
戦争は「私達」と「あの人達」
の間に起こってきました。
あの人達が悪いから、
あの人達が攻撃してくるから
壁を作ろうと。
壁の向こう側では
「あの人達」がこちら側を指さして
同じように
「あの人達」が悪いと言っているのです。
クリスマスキャロルの
歌声を響かせた兵隊たちのように
愛する息子を抱きしめた
ドイツ兵のように
「あの人達」は
また、
「私達」なんだと
気づくことがあったなら、
壁は必要なくなるのではないか
と考えたりします。
たとえ作っても、
壁はいつかは崩れます。
壁はいずれは、
観光名所程の役割しかなくなってしまいます。
心の壁を立ててしまう前に
壁のこちら側とあちら側の
本当の違いなんてあるのかなと
ちょっと
思ってみたいものです。