#107 常泣菩薩
ドクターBJ・ミラーという方がいます。
サンフランシスコの
禅ホスピスプロジェクトという
小さなホスピスプログラムで
お医者さんをしている人です。
テキサス州出身、
落ち着いた物腰、でも
いたずらっぽく優しい目をした
ハンサムな先生です。
ミラー先生は実は
両足ひざ下、
肘から下の片腕が
すっぱりと切断された
身体障碍の方でもあります。
まだ大学2年生の頃、
感謝祭明けの11月末の事です。
若者らしく友達と数人で
お酒を飲んでばか騒ぎ、
夜中の腹ごしらえにコンビニで
サンドイッチを買い
キャンパス近くのローカル線の
停車した車両に
先頭切ってよじ登りました。
その時、
露出していた電車の上部の電線から
ミラー先生の腕時計まで
一瞬のうちに
強烈な電流が走りました。
友達が駆け寄った時には、
ぶっ倒れて意識不明の体の
両足の裏から、
もくもくと煙が出ていたそうです。
電車を動かす強烈な
一万一千ボルトの電流に
内臓が晒されてしまったのです。
命を取り留めたのは奇跡でした。
7日間生死の境をさまよい、
目が覚めた後
最初に聴かされたのは
両足片手がすっかり焼け焦げで
即座に切断しなければ
生命が危ういという事実でした。
屈託なく生きてきた20歳の若者は
死と深い絶望とに直面し、
自分の人生がまさに一瞬で
全く別のものになったことを
悟りました。
高度熱傷病棟は
完全な無菌状態にありました。
重度の火傷を負った人は
細菌に極度に
感染しやすいからです。
そんな無菌状態の
窓の無い病室に寝かされていた時、
看護師さんが
隠れて小さなプレゼントを
持って来てくれました。
外は12月、真新しい初雪で
小さな雪の球を作って、
右手に掴ませてくれたのです。
一本だけ残っていた右の手、
その手のひらに乗った雪の冷たさを
三肢を切り取られた青年が
握りしめました。
自分の体温と暖かい室温で、
ポタリポタリと落ちていく水滴、
その小さな雪のボールが
ミラー先生をこの生に連れ戻しました。
これからは
今までと違う人生が待っている。
僕が遭遇した事故と
その結果は非常に困難なもの、
医者も世間もそう言うけれど、
困難がない人はいない、
僕の人生は僕にぴったりの
ユニークな困難なんだ。
2本の脚と1本の手を失った若者は
自分の一部が生を終えて、
新しい自分が生まれた事を
認識しました。
国際分野に進むつもりだったミラー先生は、
それからアートヒストリーを専攻、
後には医学に進むことを決心します。
今では死にゆく人のケアをする
医療従事者として、
患者と医療の立場を理解する
ユニークな医者として
活動を続けています。
もう一人、
皆さんにご紹介したい人がいます。
ミラー先生のいるサンフランシスコ近く
カリフォルニアのバークレーに暮らす
トニーさんです。
トニーさんは、友人の紹介で
私の椅子ヨガクラスの
ホーム頁を作ってくれている
ウェブデザイナーです。
まだ直接お会いしたことはないのですが、
フェースタイムやメールで
やり取りが続いています。
南カリフォルニア育ちのトニーさんは
海の事故で首を折ります。
彼の場合は
高校生になるかならないか
という年齢でした。
小さい時から
サーフィンやスキーなど
スポーツの才能に恵まれていた
トニーさんは、
ある夏、最年少の16歳で
上級水泳救助員になる
特訓を受けていました。
そこで起こった事故でした。
飛び込んだ浅瀬に
防波堤コンクリートが埋まっており
そこに頭蓋が突き当ってしまったのです。
中枢神経が集まっている
第三頸椎が損傷を受け、
左右上下の四肢全て麻痺、
という状態になりました。
昔スーパーマンを演じた
クリストファーリーブズさんが
落馬事故で損傷した
頸椎損傷状態と似ている状態です。
トニーさんは、
長い苦しい
リハビリの生活を続けました。
くじけそうになる時も
ありました。
音楽と友達と負けず嫌いの
性格が
トニーさんを新しい人生に導きました。
車いすと特別なコンピュターを使い、
大学では、
フィルムのデザインの勉強を、
卒業してからは
ホームページのデザインをする
ビジネスを始めました。
トニーさんはそれだけでなく、
昔から大好きだった雪山に
行く夢を捨てませんでした。
勿論自分でスキーはできなくても、
トニーさんの乗るスノースキーを
押して、雪山に行ってくれる
スキーインストラクターを
探し出しました。
2016年には四肢麻痺の
障碍者支援グループから
支援金を受けて、
アラスカでスキーをするという大挙も
遂げます。
自分が愛してやまないスキーが
出来る事が、
他の障害のある人の刺激になってくれるよう
その過程をフィルムに撮り、
ホーム頁に掲載したのです。
(以下のリンクはTonyさんの9分のビデオです)
https://www.tetongravity.com/video/ski/watch-the-first-quadriplegic-to-ever-heliski-in-ak
トニーさんとミラー先生のストーリーは
私に慈悲の菩薩、
観音様のお話を
思い起こさせてくれました。
仏教徒でないにも関わらず、
観音菩薩の大ファンの私は、
菩薩が観音様になる前の修行時代、
常泣(じょうきゅう)菩薩と
呼ばれていたことを
知りました。
常泣とは文字通り
いつも泣いている菩薩さんだった
そうです。
死にゆく人を見て泣き、
病いを見て泣き、
赤ん坊を見て泣き、
人の苦しみを観て
常に泣き暮らしていた菩薩様。
恐らく、
人間界の苦しみ全てに
限り無く
落涙されていたのでしょう。
そして、
その苦しみを取り除くことのできない
自分の非力さにも
涙を流されていたのでしょうか。
16歳で首の骨を折ったトニーさん、
20歳で手足の切断をされたミラー先生、
常泣菩薩がより一層
涙を流した対象かとも思います。
トニーさんがもう二度と自分の足で
スキーはできないと悟った時、
ミラー先生が二本の脚と左手に
別れを告げた時、
常泣菩薩が
傍で止めどなく泣いてくれていたに
違いありません。
しかし、
観音菩薩はこの修行を終えると
泣いてばかりいるのを止めたそうです。
悲しみや苦しみに寄り添うだけでなく、
その修行を乗り越える事で
慈悲の菩薩に
変化したのだそうです。
世間には観音様があちこちに
いらっしゃるように思います。
どんなに幸せそうに見える者も
どんなに小さい生き物でも、
生きる事は何らかの苦しみがあり、
そこに自在に現れてくれる観音様。
自己憐憫のような
ある意味
センチメンタルに悲しむという
常泣観音様が、
個を超えた深い悲しみに達した時、
それが慈しみであり、
慈悲になる、
そして
本当の観自在菩薩になる。
トニーさんが、
自分の夢を追う事で
他の四肢麻痺の人達に
夢を与えたいと思った時、
ミラー先生が義肢二本で
死にゆく人々の病床を
一人一人回る時、
そこに個の悲しみ以上の
慈悲があるのだなあと思います。
慈悲とは、
憐れむことだけでなく、
苦しむことだけでなく、
泣きつくす修行の後に
やって来る深い受容と
生への謳歌なのでしょう。
そんな事を考えさせてくれた
二人のアメリカ人の
勇気あるお話でした。