♯57 創り出す事
食べて、祈って、恋しての原作者 エリザベス・ギルバートさん
「食べて、祈って、恋をして」の著者が、
こんなお話をしているのを
聞く機会がありました。
この本は、10年程前、
イタリア、インド、インドネシアを舞台に
精神的自己探求に出る女性の
回想を描いた半自伝です。
マンハッタンで成功していた美人ライター、
金持ちで完璧だった夫だけでなく、
離婚後できたハンサムな恋人も
ニューヨークに残したまま
女一人、自分発見の旅に出ます。
食と美男揃いのイタリア、
スピリチュアル行脚のインド、
そして、人生の意義をバリ島で見つける、
こんなキャリアウーマンの
人生冒険物語は
多くの女性に、ため息をつかせました。
ブラッド・ピットがプロデューサー、
ジュリア・ロバーツが主演で
映画にもなったベストセラーですから、
この本や映画の題名を
聞いたことがある方は
沢山いらっしゃる事でしょう。
世界中で700万部以上も
売れた原作者の、
エリザベス・ギルバートさん。
この大成功とは裏腹に、
実はそれ以降不安の中で
ライターの仕事を続ける事に
なってしまいます。
―あの本を凌駕する本は、もう書けないのでは?
―もっと、もっと、成功しなくては。
自分が何かを創り出す事、
つまり創造性が
枯渇してしまうのではないかと思うと
いてもたってもいられなくなる
身を切られるような不安感を毎日
経験したそうです。
昔から、芸術家、アーティスト、音楽家など
身も心も削った生活をして
作品を世に出すらしいと
よく聞きます。
思う通りの作品を出せない辛さ。
作品を出せば、出したで、
その評価に拘泥する苦しみ。
次にまたそれ以上のものを
作り出し続けなければいけないという
自己へのプレッシャー。
創造をする人たちは、
自分の才能にのめり込み、
時に自惚れ、
時にのたうち苦しんで
作り出したものと自分との
距離もなくしてしまう。
広義に考えると
仕事がうまくいった時
つい、自分の才能と手柄と思いがちな
私達にも言える事かもしれません。
いや、もっと広義に考えると、
私たちも似たようなプレッシャーを自分に課して
生活しているかもしれないのです。
完璧な仕事人、
よく出来たお母さん、
物分かりのよいお父さん
良い娘役や息子役、
良い友達役などを演じ続ける私達。
自分で作った自己イメージに
押しつぶされそうになっても
必死でそれを守ろうとする私達。
アーティストたちはその作品の
評価が如実に出ますから、
もっと辛いのでしょう。
成功しなければならない。
アッと言わせなければ。
もっと、もっと。
たとえヒットを出せたアーティストでも
才能を持続させなくてはいけない
というプレッシャーに耐えられず、
飲酒、麻薬、精神の病い、
果ては家庭の破壊、早死、自殺など
悲惨な例をよく耳にします。
アーネスト・ヘミングウエイ然り、
マリリン・モンロー然り、
ジミー・ヘンドリックスもまた然り。
ギルバートさんは
アメリカのノンフィクションの大家
ノーマン・メイラー氏が生前
「自分の作品に、ジワジワと殺される」
と言っている言葉を引用しています。
有名なアーティストでない私達でも、
アイデアを、企画を、どんな仕事でも
創造していくというのは
似たり寄ったりの
不安と苦痛を伴うもの。
創り出すという事は
才能があってもなくても
そんなに苦しまなくては
できないものなのでしょうか。
「ちがう、そうではないと思うわ」
ギルバートさんは、
自分の気づきを話してくれました。
「自己破壊をする必要は、ないの」
古代ギリシャでは、
創造性というものは
人間に備わっているのではない
と考えたそうです。
ギリシャ人たち、そしてローマ人たちも
創造性とは、
人を超えたある種の精霊のようなものが、
持たらすものであると考えました。
これをギリシャ人たちは「ダイモン」と呼び
ローマ人は「ジーニアス」と呼んだそうです。
詩人に霊感を与えるミューズは
ダイモンやジーニアスの例でしょうか。
ダイモンは、後に悪魔を指すデーモン、
ジーニアスは、英語では天才を意味する言葉に
派生転換しました。
私達が、何かを創り出す時、
私達は、私達を超えていると
考えるとどうでしょうか。
ギルバートさんは、このギリシャのダイモンについて語り、
自分の気づきをシェアしてくれました。
それは、身を削るという考え方が
実は近代社会が私達に課した
狭い考え方であるかもしれないからだと
ギルバートさんは説明します。
私達が何かを作り出す、創造する時
その人の才能であり、
能力であると考えることには
無理があるというのです。
アメリカの詩人のルース・ストーンさんという女性が
ギルバートさんに話してくれたストーリーです。
アメリカバージニアで畑仕事をしながら
詩を書く老詩人のルースさんは
ある日、その精霊が、
大地を伝って自分の方に押し寄せてくるのを
文字通り体への振動で感じたそうです。
詩の到来は、
嵐のように大地を揺るがして
自分に向かって来た、
そして、
ルースさんがその時できた事は、
ひたすら走って、
気が狂ったように走って、
紙とペンのある自分の家に戻って行くことだった、と。
そのダイモンが、ジーニアスが、精霊が
自分の体を通り過ぎる時、
ルースさんは
精魂込めて捕まえて
ペンと紙にがむしゃらに書とめたのだそうです。
こんなにドラマチックでなくても、
何かを創り出すという事は
私たち以上のモノが
私たちを仮の場として
機会を与えてくれて、
そうして形になるもの。
そう考えるとどうだろう?
と、ギルバートさんは言うのです。
成功する、成功しない、
有名になる、無名のまま、
認められる、認められない
そんなことも、
自分がどうこうする事以上の
何かもっと大きな、自分を超えたものの力が
働いているのではないかしらんと。
レバノン人の詩人カリール・ジブランも
預言者という詩集の中の
「子供たち」という詩で
こんなことを言っています。
「子供たちは、貴方の子供たちであって、
貴方の子供たちではない。
彼らは、生命そのものの娘であり息子なのだ。
子供たちは、
貴方を通ってやってくるが
貴方から来たのではない。
貴方とともにいるが、
貴方に属しているわけではない」
子供たちこそ、
私たちが「創り出し」得る最高の
創造物でしょう。
「子供たち」というのを
自分の作品、仕事、弟子、コミュニティ、
自分が創り出す人生
と置き換えて考えてみられるのも
良いかもしれません。
有名作家でも詩人でもない私ですが、
このお話を聞いて、私にも
感じる所がありました。
毎週メールマガジンとポッドキャストを
配信していると、
時々読者や視聴者の方から
コメントを頂きます。
その中で多いのは
「どうやってテーマをみつけるんですか」
「毎週コンテンツを出すのは大変でしょう」
というコメントです。
答えは「イエス、アンド、ノー」です。
勿論、皆さんに読んでいただくストーリーを
自分なりに考えて、まとめて
ライフコーチの視点から配信するので
それなりの習慣づけが
必要です。
と言っても
「絶対毎週出すぞ」という決心と
決まった時間にラップトップに向かうという
ただ、それだけなのですが。
大抵、週末は自宅のオフィスにこもって
ウーンウーンと奇声を発しつつ、
コンピュータとマイクロフォンに向かっています。
それは、だいたい
私のネットや音声編集技術不足から
来るものです。
話のトピックの方は、
いつ、どこで、お会いした方からも
心の耳を開いてお話を聞いていると、
意外にすんなりと、
シェアをしたいお話のヒントを頂けます。
クライアントさん達からも
ハワイや米本土、日本、
その他の国にいるお友達からも、
昔教えた学生さんたちも
ヨガクラスに来てくださる方々、
ボランティア活動などでお会いする人達からも。
勿論、映画、フェースブック、ニュース、
心理や催眠療法の専門書から
興味あるストーリーの
ヒントを頂くこともあります。
でもそれは、
私が話を聞いて、私が書いている
というのと、ちょっと違うように思います。
ちょうどギルバートさんが言うように
素晴らしいお話は、
すでにそこにあって、
私がたまたまそこにいて、
または、何かの拍子で
私がそこを通りかかったという感じです。
心に残るお話が、
ひょいと風に舞って頭の上に
葉っぱか何かのように降りてきてくれた
と、そんな感じです。
通りかかる事ができた私は、
心に響くストーリーに巡り合って、
「ラッキー!」と
ワクワクするのです。
そのワクワクを伝えたのが
このメールマガジンとiTunesに配信している
Podcastです。
これが、ギルバートさんがシェアしてくれた
古代ギリシャのダイモン、
といっておこがましければ、
ミニミニミニ、ダイモン。
朝、シャワーを浴びながら、
珈琲を飲みながら、
時にはヨガのクラスでバランスの
ポーズを取りながら、
「今週は何を書きましょう?」
と、心の中で質問すると、
ポッと浮かぶ言葉や顔やシーンがあります。
あ、これね、と私。
ミニダイモンは気まぐれで、
ドドーンと来るときもあれば、
ちらっちらっと思わせぶりな時もあります。
どちらにしても、ポッドキャストを聞いて
メールマガジンを読んで、
シェアする事の出来る皆さんの
存在があって始めて、
可能になっている事です。