#96 私は私の事をします
1991年に
バグダッドで生まれた
イラク人のズハールちゃんは
6歳の時にピアノを始めました。
始めてすぐ
ピアノが大好きになり、
お母さんに言われなくても
自分から一生懸命練習
するようになりました。
ズハールちゃんの指が
鍵盤に触れている時、
自分が大きな透明の
シャボン玉の中にいるようで、
外のいろいろなことから
自分が守られているような
安心を感じました。
ピアノの音が好き、
ピアノを弾いている自分が好き、
音楽に守られている
自分がとっても気持ちいい。
ズハールちゃんの生まれた国
イラクは
古代メソポタミア文明を継承する
豊かな歴史と文化を持つ国です。
国の8割はアラブ系ですが、
クルド人やキリスト教系の人々もおり、
国家は何年間もの間
分裂と闘争を繰り返してきていました。
人種や宗教の派閥、
世界有数の石油産出国である事などが
多くの闘争の
原因となっているのだそうです。
ズハールちゃんが生まれた年、
1991年は
イラクでは、
ちょうど湾岸戦争という
外国との戦争が
始まった年でした。
それも、一つの外国だけでなく、
沢山の外国、多国籍軍が
イラクを攻撃してきたのです。
それは、イラクが
お隣のクエートに侵攻したのが
間違っているという理由でした。
空には戦闘機が飛び交い、
ティグリス川に囲まれた
美しい中世都市バグダッドにも
毎日のように爆弾が落とされて、
陸にも外国からの兵隊さんが
やってきました。
怪我をする人や死んでしまう人も
いました。
危険を避けるため、
外国の知り合いを頼って
故郷を去っていく人も
沢山いました。
クラスメイトも
一人二人と
いなくなりました。
シャボン玉の外は
爆弾で破壊されたビルや
倒れた電柱や怪我をして泣き叫ぶ人の
世界でした。
毎日、恐ろしい事が起こっていると
ニュースが伝えていました。
自動車爆弾が破裂し
それに巻き込まれて
亡くなってしまったクラスメートもいました。
ピアノが、音楽が、
そんな外界から
ズハールちゃんを
守ってくれるような気がしました。
ズハールちゃんのご両親は
若い頃イギリスで教育をうけた
教養人たちでした。
イラクやアラブの文化を大切にしつつも、
世界には沢山の文化、言語、宗教が
ある事を
ズハールちゃんに教えてくれました。
その両親は
ズハールちゃんがまだ
中学生になったばかりの頃
不幸な事に亡くなってしまいました。
バグダッドにある
「音楽バレー専門校」に
入学していたズハールちゃんは、
不安や悲しみを音楽で癒しました。
音楽はズハールちゃんを
守ってくれましたが
バグダッドの街は次第に、
バイオリンのケースを
持って歩いているだけで
逮捕されるような
危険な風潮が広がっていました。
軍事国家だった日本でも、
第二次世界大戦中は
髪の毛にパーマをかけていたり、
西洋志向の人は
非国民と呼ばれた事がありました。
イラクでも同じでした。
ベートーベンやバッハなど
西洋の音楽やバレーを、
表立って練習したり
演奏したりが
難しくなってきていたのです。
イラク人を苦しめている
外国の音楽を演奏するなど
とんでもない事だと
考える人がいたからです。
学校に来るときも
銃を持った兵隊さんが
護衛してくれないと
危険でした。
爆撃でピアノを破壊された
クラスメートもいました。
ズハールちゃんの尊敬していた
ピアノの先生も
身の危険を感じて、
国外に去って行ってしまいました。
国に残された音楽家の卵たちは
見よう見まねの
自主学習をする以外
音楽を続ける方法はありませんでした。
ズハールちゃんは17歳になりました。
生まれてから
戦争しか知らない少女は、
それでも現代の子です。
ソーシャルメディアで
世界の音楽家たちからの
情報を得ようとしました。
そして、
自分と同じように、
イラク国内でも、
同世代のミュージシャンたちが
音楽を続けている事を
ネットで知りました。
師事する先生も、学校も
時には楽譜も
楽器もない状態でも、
音楽を愛する子供たち、
若者たちがいるのです。
そして、こう思いました。
「イラク全国の
私のような音楽家たちに、
声をかけたらどうだろう。
私だけじゃないはず。
皆、音楽を続けたいって、
思っているんじゃないかしら」
ズハールちゃんが考えた事は、
イラクの若手音楽家の
オーケストラを作るというアイデアです。
勿論、
お金もない、
スポンサーもない、
楽器もない、
戦争中に音楽そのものを
応援してくれる人もほとんどいません。
オーケストラをどう作るのか
そのやり方もわかりません。
やった事もないのですから。
でも、やってみようという気持ちが
ふつふつと湧いてきたのです。
好きな音楽で
イラクの若者たちをつなげよう。
やりたいって思っている同世代が
絶対いるはずだ!
大人たちが戦争をして
破壊ばかりしているなら、
私たち若者は
音楽を続ける!
音楽は私を守ってくれて来た、
イラクにハーモニーを取り戻したい。
音楽がきっとその架け橋になる。
どうして、病院や学校をつくらないの?
と聞いた人もいました。
道路や建物を作る方が先なんじゃないの?
私が好きなことで、
私にできる事で、
希望を取り戻したいの。
それが、ズハールちゃんの返事でした。
イラク中に散らばる若い音楽家たちと
ズハールちゃんは
インターネットでつながりました。
選抜のオーディションも
youTubeやスカイプで
実行しました。
40人の宗教も言葉も違う
一人一人の若者たちが、
同じイラク、
同じ音楽への情熱で集まりました。
コンダクターはスコットランド人の
音楽家が買って出てくれました。
これもネットの力です。
イギリスの新聞に
戦争中のイラクの若者たちが
オーケストラのコンダクターを
探していると
紹介してくれたからです。
小さな指でピアノを弾いていた
ズハールちゃんは
今はもう27歳になりました。
アラブの女性で、
音楽家で
諸外国の社会の外と繋がって
音楽を通じて世界に
希望を呼びかけるスハールさんは
危険を感じながらでも
活動を続けています。
このグループは
ナショナル・ユース・オーケストラ・イラク
(NYOI)と呼ばれています。
14歳から29歳までの
若い音楽家たちが
戦火の中で作り上げたオーケストラです。
2014年、
イラクの若者たちのオーケストラは
アメリカまで演奏ツアーをする
機会にめぐまれました。
しかし、残念ながら、
イスラム過激組織「イスラム国」ISISの
活動が活発化し、
アメリカ政府は
イラクからの青少年のビザを
寸前で取り消してしまいました。
暴力と恐怖と憎しみを広げようとする
人々や組織や国家があると同時に、
ズハールさんのグループのように
ないないづくしでも
希望と夢と音楽を
忘れまいとする若者たちもいます。
このお話を聞いて、
私は自分の反省をしました。
平和、
安全、
希望、
選択肢、
いろいろな分野の素晴らしい先生がた、
ズハールさんやイラクの若者たちに
無いものが
私や私の周辺には
当然のように存在します。
子供の時に
外で遊びたくてピアノのお稽古を
さぼってしまった事まで思い出しました。
ズハールさん達は、
「ない」という事に
負ける事なく、
「ない」から出発しても
どうやったら
夢を実現させるための行動に移すかを
自分にわかるやり方で
諦めずに挑戦しつづけたのです。
両親も亡くした17歳の
戦火の中の少女、
ズハール・サルタンさんは
彼女が情熱を傾けた事を
実行しました。
それは私や貴方が
情熱を傾けたい事とは
たぶん同じではないでしょう。
それはそれでいいと思います。
私たちはズハールさん達から
その勇気と実行力の
力をもらえばいいのですから。
前にも一度
ご紹介したことがありましたが、
ゲシュタルト精神医学の創始者と
言われている
フレデリック・パールズ氏の
「ゲシュタルトの祈り」
を今日は最後にお届けしたいと思います。
「ゲシュタルトの祈り」
私は私のことをします。
ですから、
あなたはあなたのことをして下さい。
私は、あなたの期待に添うために
生きているのではありません。
そして、あなたもまた、
私の期待に添うために
生きているのではありません。
あなたはあなた、私は私です。
でも、私たちの心が、
たまたま触れ合うことがあったのなら、
どんなに素敵なことでしょう。
でも、もしも心が通わなかったとしても、
それはそれで仕方のないことではないですか。
(何故なら、私とあなたは、
独立した別の存在なのですから…)
(Fritz Perls, Gestalt Prayer)
私たちの心が触れ合って、
1人ではできない事も
スハールさんが音楽を通じてしたように
実行する事が出来たら、
それはどんなに素敵な事でしょう。