#77 観音様の手
12月のある日、
木枯らしが吹きさらす
農道の向こうに
一件ポツンと光を放つ
人家がありました。
この辺では裕福な農家の
団らんの明かりのようです。
外の冷たさに比べて
その光は暖かさを放っていました。
闇にまみれて一人の若い女性が
農家に忍び寄ると、
抱えていた大きな包みを
立派な門の脇に、そっと置きました。
黒い男物の古いオーバー、
長いすそが
何重にも折りたたまれています。
誰かが見つけてくれるまで
少なくとも一時
暖を保つことが
できるはずです。
若い女は
凍えた手でそっと包みを置くと
小走りに近くの藪に駆け込み、
しばらくその場で
しゃがみこんでいました。
自らの手で口を押え、
声を押し殺して泣いているようです。
暫くするとその包みの中から
赤ん坊の泣き声が聞こえてきました。
始めは弱弱しく、
次第に泣き声が大きくなっていきます。
その声を聞きつけて門灯が付き、
家の中から誰かが出てくるその瞬間、
藪の陰に隠れていた女は
一目散に駆けだし、
闇の中に去って行きました。
農家から出てきた農夫は
黒いコートの中に
生まれたての赤ん坊と
小さな紙きれを見つけました。
19xx年11月21日
とだけ書かれた紙きれ。
その日付が
赤ん坊の生年月日だとすると、
その小さな命はまだやっと
3週間をちょっとすぎたばかり。
ごつごつとした農夫の手が
そっと持ち上げると
腕の中で赤ん坊は
少し静かになりました。
翌日警官と農夫に連れられて
赤ん坊は、
地元施設の小さな住人となりました。
ここは、中国の浙江省(せっこうしょう)
義烏(イーウー)市。
農村に囲まれた商業中都市にある
老人ホームと孤児院の合併した
福利院と呼ばれる施設です。
ちょっと太めの腕の、
福利院の院長先生は、
今年すでに何人の赤ちゃんたちを
胸に抱いたことでしょう。
深い慈悲の目をした50代後半の
院長先生は、
赤ん坊を農夫から受け取り、
深いため息をついてから、
赤ん坊の連れられてきた日、
生年月日を台帳に記録しました。
中国の人口政策で
80年代から導入された
「独生子女(独りっ子)政策」により、
生まれてしまった
女の赤ちゃんの多くが
置き去りにされました。
1人しか産めないなら
男の子をという文化背景がありました。
福利院では乳児用のベッドが
決定的に不足して、
一つのベッドに二人ずつ
寝かされていました。
判で押したように
同じ髪型の
同じ産着と布オムツの
赤ちゃんたち。
女の赤ちゃんたちの
頭が刈りあげられているのは、
小さい時に刈り上げた髪の毛が
年頃には美髪になると
中国では信じられているからです。
始めて入居した赤ちゃんには
院長先生が、新しい名前を付け
1人ずつ
自らその頭髪を刈り上げました。
いつの日か、
この子たちがもらわれていく時のため、
一人一人の話が
きちんとできるように
院長先生は、
記録を取っているのでした。
21年前に起こった出来事です。
。。。私はこの話を
小さい頃から娘に何度も
話して聞かせてきました。
貴女の直毛が
そんなに豊かなのは、
院長先生に
しっかりと刈り上げてもらったから。
貴女が規則正しい生活ができるのは
赤ちゃんの頃から福利院の先生たちが
心を込めて
育ててくれたから。
貴女がこれ以上ない位丈夫なのは
多くの人が貴女の大切な命を
小さい時から
守ってくれたから。
貴女を置き去る以外仕方がなかったお生母(かあ)さん、
貴女を拾い上げてくれた農夫、
貴女に名前を付けてくれた院長先生、
多くの人に助けられて
アメリカ人として育った貴女。
たぶん中国にいたら
勉強するチャンスがなかった学問を
今精いっぱい勉強できている貴女。
私はこの話を娘にしながら、
娘をここまでにしてくれた
一人一人の方たちの事を
いつも
観音様チームに
助けてもらったようだと思うのです。
次々と慈悲と優しさの手が
リレーを組んで
娘が今ハワイで大学生になる
手伝いをしてくださったと思うのです。
宗教家でも
仏教の専門家でもない私ですが、
強さと柔軟性を持っているという
観音様が昔から大好きです。
観音様の正式名は
観世音菩薩、または
観自在菩薩というのだそうです。
観音の「音」とは
世の人の「苦しみの声」の事です。
観自在とは
自由自在に観る、
自由自在に聴くという意味も
あるそうです。
観世音菩薩は
人を救うため
三十三身に形を変えて現れたり、
千手観音様のように
手の一つ一つに目がついていて、
臨機応変に人を助ける事が
できるのです。
捨てられた赤ん坊の声を聴くこと、
捨てていった母親の苦しみを観ること、
拾い上げた農夫の手や
院長先生の腕となること、
これは全て
観音様がやった事のような気がして
仕方がありません。
こうして娘を育ててくれた人達も、
また、
ライフコーチや催眠療法士として
地域のボランティアとして
時々お会いする人達の中にも
観音様がいるものだなあとも
思います。
最近こんなこともありました。
観音様が自由自在にいてくださると
感じた例です。
時々お邪魔する
介護施設に先日伺った時、
ドアが開いていたので、
間違って
洗面所にずかずかと
入り込んでしまいました。
ちょうど住人の
80代の女性が
介護士に付き添われて
トイレを使っているところでした。
用を済ませたらしい老女を
日本女性の介護士が世話をしていました。
一瞬の事でしたが、
あわてて詫びを言い、
その場を離れたのですが、
その介護士の女性と
老女の二人の様子が
目に焼き付いて離れませんでした。
心に残ったのは、
これ以上ないと言うほどの
優しさを持った介護士の目でした。
同時に
介護の手を信頼をして
相手に自分をゆだね、
介護を受ける人の
あるがままの様子でした。
侵入してきた私に向けた二人は、
どちらも穏やかに
微笑んでいるように
見えました。
一瞬、
介護を受ける方も介護をする方も
どちらも「観音様だ」と思ったのです。
もう一つ、
観自在菩薩が特に
親しみを感じさせてくれるのは、
時に、貴方や私を使って
登場する事も
あるからです。
私や貴方が
他人の苦しみを感じる時、
知らずに相手に心を寄せる時、
不愉快な事をされた相手を許す時、
理由もなく
誰かに優しい言葉をかけたくなる時、
独りぼっちを感じている人へ
電話やメールを送る時。
知らないうちに観音様が登場して、
私達もいっとき
観音チームに参加するチャンスを
与えてくださっているのかな
と思ったりします。
他の人に観音様を見ること、
自分も観音チームに参加できる事、
自在に心を開くと、
観音様の手はどこにでも
登場してくださる気がします。