#116 二本の矢

ミルトン君は小学校6年生。

小粒で繊細タイプ。

野球やサッカーはいまいち。

お母さんは 外に出て遊んでおいでと

よく言うけれど、

家の中で、

猫のスナグルと一緒に

ゲームなんかしている方が

どちらかというと好き。

それに、

近所にいるクラスメートの

ダンカンは

ミルトン君の顔を見ると

直ぐ寄って来て

小突き回そうとする。

外にあまり行きたくない

理由の一つ。

 ダンカンは、

学年は同じだけれど、

もう、薄らっと口ひげなんか、

はやしちゃって

体もミルトン君の

1.5倍はある。

この前もそうだった。

理由もないのに

急に寄ってきて、

なんだかんだ

難癖をつけると

最後は胸倉をつかんで、

いじめようとした。

典型的ブリー(いじめっ子)、

すっごく嫌な奴だ。

今は学校がオンラインだけど、

又、あいつに会うと思うと

このままずっと

学校には行きたくないのが

ミルトン君の本心。

 

「また会っていじめられたらどうしよう」

「どうやって逃げよう」

「先生や大人に言ったら、

後でもっといじめられる」

ミルトン君は本気で、

心配しています。

今日、ミルトン君は、

猫のスナグルが

後ろ足をびっこを引いていたのに

気が付きました。

よく見ると

怪我をしたらしく、

血液が後ろの毛に

ついて固まっています。

理由はすぐわかりました。

ダンカンの家の

ドーベルマン犬の

ブルータスにやられたのです。

スナグルは、

散歩の途中、

時々ブルータスの傍まで行くのです。

 「あそこに行っちゃいけないよ」

と、ミルトン君は

言い聞かせているのに、

怖いもの見たさなのか、

スナグルは、

わざわざブルータスの傍に行って、

いじめられて怪我までして

帰って来たのです。

 「お前は、また

あいつにやられちゃったんだね」

自分の姿を見るように、

ミルトン君は、

おじいちゃんと一緒に

猫の傷口を丁寧に

手当をしてあげましtた。

 

猫は嬉しそうに

ゴロゴロ言っています。

そして、

傷口あたりをしばらく

ぺろぺろ舐めていましたが、

やがて、

ミルトン君の横で

気持ちよさそうに

昼寝を始めました。

 ミルトン君は思いました。

「僕はダンカンの事が嫌で

心配しているのに、

怪我をさせられて帰ってきた

スナグルはどうして

こんなに気持ちよさそうに

寝ていられるんだろう?」

 ミルトン君は、

不思議に思って

おじいさんに聞きました。

 おじいさんは

「猫は今に生きているからさ」

と、当たり前のように言います。

「お前は、ダンカンに

いじめられるかもしれないという

ありもしない将来に

生きているから

心配で、いられないんだな」

 「ありもしない将来」って

おじいちゃんは、

ダンカンを知らないから

そんなこと言うんだよな、

ミルトン君はちょっと

ふくれっ面をして思いました。

「猫は今に生きている」って、

ドーベルマンのブルータスに

いじめられることを

忘れちゃっているってこと?

スナグルは心配しないのかな。

「今に生きている」って

どういう意味かなあ。

ミルトン君は、

しばし考え込んでしまいました。

 

ミルトン君のこのお話は、

「パワー・オブ・ナウ」の著者で

精神性の世界的指導者の

1人と言われている

エックハルト・トール氏が

子供用に書いた

「ミルトンズ・シークレット」

という本からのお話です。

著者は、

ミルトン君のおじいさんの

声を通じて、

私達には「今」しか存在しない

という事を伝えたかったの

だと思います。

 

しかし私達はミルトン君と

同じように、

過去の経験から学んで、

将来に備える

という思考過程を学習し、

生活していますから、

おじいさんの言う

「ありもしない将来を心配するな」

と言われても

そう簡単に

できるわけではありません。

 

「貴方が、何か外から来る理由で

苦しむことがあるならば、」

とローマ時代の哲学者

マルクス・アウレリウスという人も

言ったそうです。

「貴方を悩ますのは、

その外から来る

事物、事象自体なのではなく、

それに関する

自分の判断、知覚、感情なのだ」

 確かに、

ミルトン君を悩ましているのは、

ダンカンに

いじめられたという

過去の事だけではなく、

ダンカンに

又いじめられるのではないか

という自分の判断による

将来への心配でもあります。

これは、認知行動心理のセラピーでも

用いられている考え方です。

起きてしまった事、

言われた事、

これらは

変えようのない事実ですが、

それに関する自分の判断とは

自分が選択する余地の有るもの

という考え方をします。

 平たく言うと、要するに

「ものは考え様」

という事ですね。

 私は離婚した前の夫が

不義理をした時、

自分に過失があるからだと

信じ込んで、

苦しみました。

夫の行動=私自身の過失

と固く思い込んでいたからです。

 

物事をどうとらえるか

貴方の価値を作るという

考え方もあります。

相手の行動が

こちらにも

原因があるとしても、

実際には、

相手の行動はあくまで、

相手の行動と

離して考える事は

セラピーなどを通じて

できるようになりました。

よく、私のセラピストが

聞いてくれたものです。

「彼は、そういう事した。

それは貴方が、

どうだということなの?

貴方はその行動について

どう考えるの?

それは貴方にどう関わるの?」

 仏教にも「二本の矢」

という説話があります。

 有名なお話ですから

皆さんもお聞きになったことが

あるかもしれません。

生きとし生けるものは

必ず苦楽がある、

そして、それは

二本の矢を受けるようなものだ、

と仏様が言ったそうです。

阿含経というお経の中の

「箭経」にあるお話で、

「箭(せん)」というのは「矢」の事

だそうです。

 一本目の矢とは、

生きていると起こる

あらゆる事象の事を指します。

仏様は苦楽と言って

楽しい事の方も含まれたそうですが、

今回は特に、

私達に苦しみをもたらす矢と

捉えて話を進めます。

コロナ菌騒ぎで失業した、

病気になった、

事故を起こしてしまった、

肉親が亡くなった、

子供が反抗する、

ダンカンにいじめられる、

夫が浮気をする、

人生で飛んでくる矢は,

数限りがありません。

これは、

水がある限り

風がある限り起こる

水面の波であり、

避けようのない波紋です。

仏様が言われたのは

二本目の矢です。

これは避ける事ができる。

これは選択する自由があると

言われます。

何故ならそれは、

自分の判断だからです。

どう反応するかは

貴方が決められることだからです。

さざ波を荒波にする事もできるし、

さざ波が収まるのを

待つこともできます。

波が起こる事は第一の矢で、

第二の矢はそれを

どう受け止めるかという事です。

荒波を立てれば

二本目の矢も

ぐさりと刺さります。

三本目も、四本目も来てしまうかもしれません。

二本目を引き抜いて

更に相手に投げ返すかもしれません。

 自分の苦楽に拘泥してれば、

自分がどの矢と面しているのか

分からなくなってしまします。

心が奪われた状態だからです。

一本目の矢を体への矢

二本目の矢を心への矢と

考える事も出来ます。

決める選択肢が

貴方にある。

二本目の矢を避ける選択も

二本目の矢を投げ返す選択も

二本目の矢を

取り除く選択も

貴方にある。

ミルトン君のスナグルが

傷を受けても

ゴロゴロと気持ちよさそうに

寝る事が出来たのは、

猫が二本目の矢を

どうするかを

知っているからなのかもしれません。

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