#118 モップを持ったヒーロー
シリア出身の
ハッサン・アカッドさんは、
現在32歳。
9年前戦争が起こるまでは
ダマスカスの高校で
英語の先生をしていました。
今はロンドンから30分程離れた
レイトンストーンという町の
病院で清掃員をしています。
難民だから最低賃金で
病院の掃除をしているのかと
思われるかもしれませんが、
そうではなく、
アカッドさんは自から選んで
数か月前、
この仕事に飛び込みました。
担当の病棟の入り口には、
「Covid-19(コロナ)特別病棟」につき、
「訪問客禁止」
「防護具なしの入室禁止」という
大きな貼り紙が貼られています。
一日8時間、
手袋、ビニール製エプロンに
ゴーグルとフェイスシールド、
2重のマスクという出で立ちで、
アカッドさんは
仕事につきます。
トイレ、ベッド、電気のスイッチ、
ドアノブや窓、蛇口、流し、
多くの人が手を触れる所を
塩素系漂白剤で
万遍なく
拭きまくります。
患者さんの部屋は
退院の場合も
死亡した場合でも
「ターミナルクリーン」という
特別の清掃をする必要があります。
徹底的に殺菌をするため、
ベッドシーツ等
患者さんが使用したものは
全て破棄。
医療機器の表面、
ベッドの金属部分、
窓の桟、壁や床も、
時間をかけて部屋の上から下、
外側から内側へと
抜かりなく清掃を行います。
清掃用の紙タオルも、
床を拭いたモップも
即座に
特別のごみ箱に捨て、
厳重に隔離された
特定のごみ収容所に移動させます。
放射線被ばく防護と同じように、
清掃員が来ている防御器具一切も
これまた全て破棄。
これを二回繰り返す規則なので、
一連のターミナルクリーニングには
一病室に2時間近くが必要です。
イギリスは、ヨーロッパで
コロナによる死者がトップ人数の
3万5千人、
陽性者が24万人以上いる国です。
アカッドさんが働く病棟は
ロンドン付近でもコロナの最前線と
考えられている場所です。
あるコロナ菌感染追跡の報告によると
クルーズ船で乗客が全て
下船した17日後にも
ウィルスが元気でいたということです。
実際に医療にかかわる
医師や看護師、薬剤師、介護師に加え、
こうした縁の下の力持ちー
アカッドさんのように
前線で仕事をする
清掃担当の人達の仕事も、
この上なく重要なのです。
イギリスでも他の国でも
人が嫌がる危険な仕事は
難民や低所得者たち
である場合が多いのです。
アカッドさんは清掃員になる前、
「Exodos(出国)」という題名の
映画を撮影しました。
それは、
祖国シリアを追われた自分達の
苦難の逃避行87日間を描いた
ドキュメンタリー映画でした。
この映画は、2017年
英国アカデミー賞を受賞しています。
祖国で、一介の英語教師だった
アカッドさんは、
自由とデモクラシー擁護の
反戦デモに何度か参加しました。
決して政治的ではない
普通の青年でしたが、
独裁者が政治をコントロールしては
行けないという
強い気持ちから参加したのです。
しかし、ある日
反対勢力を抑圧しようとした
独裁者政府の警察に
投獄されてしまいます。
2週間拷問をうけ続けて手足骨折、
手首の骨は使い物にならないほど
粉々に砕かれました。
幸い、独房から出る事ができましたが、
投獄後、教師の仕事は解雇、
統制下では
他の仕事に就くことができなく
なってしまいしました。
2011年3月に始まった
シリア内戦では、
死者37万人、
人口の6割近い
1300万人が難民となりました。
国外に逃げ出したのはその半分、
アカッドさんを含む
560万人の人々です。
ロシアの軍事介入、
イランなどの中東武装勢力から
援助をうけた政府軍は
シリア人が生まれ育った町を
次々に破壊し、
愛する人達を爆弾で吹き飛ばしました。
平和な国にいる私達には
想像もつかない
国際政治の駆け引きの
犠牲になっている人達です。
死んでいった人達は
普通の会社員、お母さんや子供、
店の店員、工場労働者、
弁護士、医者などもいました。
仕事に出たまま
行方知らずになった
市民も数限りなくいます。
歴史上の話ではなく、
ここ数年の間、
いや、今現在も
起こっている事です。
スマホを持った人達が
瓦礫の下で
必死で世界に訴える声を
私はFBで見たことがありましたが、
恥ずかしながらほとんど
注意を払いませんでした。
世界の向こう側の
私には関係ない国の事。
シリア内戦?
事情が複雑すぎで
知ろうとしてもよくわからないし。
安全を求め、
故郷を離れたシリア人たちは、
国境を超えるための
パスポートがないので、
密輸業者に大金を払って
密入国をしなければ
どこにも行けません。
2015年の6月のある日
トルコで難民となっていたアカッドさんは
10人の子供を含む63人の人達と
すし詰めになって、
粗末なボートに乗りました。
自分達を受け入れてくれる
自由の国を
めざそうとしたのです。
しかし、そのボートは
即座にトルコの
沿岸警備隊に捕獲され
乗員たちは、
難民キャンプに連れ戻されます。
翌日45人の人と
再度挑戦して乗船しますが、
助けてくれるはずの国の
ギリシャ軍につかまって
エンジンを破壊され、
ボートは転覆してしまいました。
若い男たちは、
老人や泳げない人を舟に乗せ、
エンジン無しのボートを
人力で押して泳ぎました。
7時間の死に物狂いの後、
ギリシャ領のレスボス島まで
ボートは奇跡的に到着します。
しかし、それからの旅も決して
安全ではありませんでした。
セルビアー>ハンガリーー>オーストリア、
->ドイツー>ベルギー->フランス、
難民を受け入れているここ
英国に到着するまでの
筆舌に尽くしがたい旅が、
テクノロジーの力で
アカッドさんの
カメラに収まりました。
それがアカッドさんが撮った
ドキュメンタリー映画「Exodos(出国)」です。
英国では
住む場所、食べ物など、
落ち着くまでの支援を受け、
正式な亡命者として
受け入れてもらう事ができました。
アカッドさんは、
自分の体験と、難民への支援、
今の仕事で見聞きする
コロナの犠牲者たちのニュースを
インスタで発信しています。
コロナ菌患者の場合は、
あっと言う間に亡くなるケースが多く、
愛する家族に囲まれて
安らかに旅立つ事は
許されない場合がほとんどです。
たとえ、家族がいても、
スカイプで、
スマホで
「さようなら」を言うしかないのです。
「病院のスタッフの僕たちは
なるべく患者の傍を
離れないようにしています」
というアカッドさん。
それでも、
多くの人がたった一人で
死を向かえているのが現状です。
美しい古代都市ダマスカスから
やってきた青年は、
受入国英国で、
痛む手首を酷使して、
コロナ病棟のモップ掛けをしています。
手首の痛みより
もっと胸が張り裂けそうになるのは、
先週まで元気であった人達が、
看取る人もなく
苦しんで亡くなっていく事です。
全てを失った自分を受け入れてくれた
英国人たちが
バタバタとなくなっていくのを、
なすすべもなく
見ている自分がいる、
本当に苦しいと、
ソーシャルメディアで
アカッドさんが訴えます。
「僕は多くの同胞に比べ幸運です。
生き残る事ができたのですから」
「僕には役目があります。
今も難民状態で苦しんでいる
同胞たちのことを伝える事、
そして、
コロナ菌を真剣にとらえていない人々に
この現状を伝える事」
アカッドさんは
何かを発明したり、
国を救ったり
というような歴史に残る英雄では
ないかもしれません。
しかし、
「僕にできる事をするしかありません」
モップを片手に
コロナ病棟を
一部屋一部屋、清掃する青年は、
1人でも多くの人の助けになる事を
しようとする
本当のヒーローではないでしょうか。
今この時にも世界中に難民がいます。
軍事破壊の犠牲になっている人達がいます。
世界中にコロナ菌や他の病気で
苦しんでいる人達がいます。
親を亡くした孤児がいます。
「難民」という特別の人が
いるのではなく、
「コロナ患者」という
特別な人がいるのではなく、
貴方が、いるのです。
私が、いるのです。
貴方の家族が、
夫が妻が
子供が兄弟が
おばあちゃんが
おじいちゃんが
苦しんでいます。
アカッドさんの声を聴いて、
私には何ができるんだろうと
考えました。
「自分にできる事をするだけだよ」
若禿頭で優しい目をした
アカッドさんの言葉が
胸に響きます。
「自分にできる事」
そして、一人でも多くの人の
為になる事をする事。
そういうことを
思い出させてくれる人。
ヒーローとはこういう人の事を
いうんだろうと
心から思いました。