イスラエル空挺隊員の
アブニールさんは31歳、
ユダヤ人として
祖国をテロリストや外敵から守るのは
男女とも国民の義務だと考え、
兵役につきました。
父親も兄も先生方も
周りの人は全て
従軍歴のある環境でした。
イスラエル軍は世界でも
実践に強く、
洗練度の高い軍隊とみなされ
兵士たちは誇りを持って
兵役についています。
アブニールさんもそんな一人でした。
アラブのテロ容疑者を摘発し、
イスラエルを守る事は、
国民の義務であり、
祖国の発展と平和に通じる
大切な仕事だと信じていました。
ある日の夜半の事です。
アブニールさんの部隊は
偵察隊の援護のため
パレスチ自治区の一般家庭に入って
行きました。
そこはすでに安全確認が
取れている家庭でした。
イスラエル国防軍が選んだ家では
住人は家から出る事はおろか、
トイレに行くのにも
ライフルを持った兵士たちの
監視下の元に置かれます。
軍服を着て銃を持った兵士たちは
家族が寝ていようが
食事中であろうが、
有無を言わせずに入り込み、
パレスチナ人の家の窓から
外で任務につく同僚の
援護に当たるのが役目です。
その夜、家族の1人の老婆が
悲鳴を上げ始めました。
兵士たちが入って来た物音に驚いてか
寝床から落ちた様子です。
家族はなすすべもなく
老婆と兵士のいる部屋の入口付近に
集まってきていました。
小さい子供を抱えた女性も
中学生くらいの男の子もいました。
パレスチナ一家は
恐怖と混乱の目で
アブニールさんたち兵士を見ています。
アブニールさんは
パレスチナ人はイスラエルを
脅かす敵と教えられて
軍務についています。
しかし、
この家族はどうでしょう。
悲鳴をあげる老婆、
小さな子供たち、
子供を守ろうとする蒼白の母親。
「『この人達が本当にイスラエルを
脅かしているのか』とその時思いました。
この人達から見たら、
何もしていない自分達の生活を
僕や仲間が、脅かしている!」
パレスチナ自治区のガザは
実際は周辺をイスラエル軍に
軍事封鎖されているため、
医療や日用物資などが慢性不足し、
住人達は
困窮の生活を余儀なくされています。
貧困、失業、自殺などが
多くはびこっていました。
アブニールさんにとってこの経験は、
戦士としてではなく、
人間としてパレスチナ人と接した
初めての体験でした。
「これは僕がしたかった事ではない」
教えられ信じてきた事と
自分が体験した事との
大きなギャップを感じたのです。
テロリストである「敵」が
自分と同じ人間だったと
気づいた体験でした。
一方、
エルサレム郊外のアル・クアッド大学に
パレスチナ人の
モハメッド・ダジャニ先生がいます。
今年73歳になる先生は
まだ小さい頃、
イスラエル軍侵攻で
両親とともに故郷を追われ、
パレスチナ難民となった人です。
パレスチナ人たちは
アラビア語のナクバ(大災厄)という言葉を
語り継いでいます。
「乳と蜜の大地」と呼ばれる
肥沃な故郷の大地を追われ
70年も続く
大混乱の歴史と悲惨な生活を
この一言が重く物語っています。
ダジャニ先生も難民として育って成長し、
教育を受け、教師となり、
後にパレスチナの大学でも
教える事になりましたが、
いつの日か
ふるさとに帰還するという夢を
持ちつづけています。
温厚な口調ではあっても
次の世代の若者たちに
ナクバを語り、
パレスチナ人としての誇りも
強く持ち続けるダジャニ先生は、
何年か前こんな体験をしました。
高齢になった父親がイスラエルの病院に
癌で入院したのです。
パレスチナ地区の病院では
十分な治療ができなかったためでした。
アメリカに留学をしていたダジャニ先生は
取るものもとりあえず、
父親の元に駆け付けました。
イスラエルの病院にいたのは
憎い「敵」のイスラエル人ではなく、
1人の老人を救おうと努力してくれる
イスラエルの医師や看護師たちでした。
さらに後日、
母親を車に乗せて運転中、
老母がストレスから
突然心臓発作を起こすという
惨事が起きてしましました。
運転中だったのは
ちょうどイスラエル地区で
パレスチナ難民が許可もなく走る事は
許されていない場所です。
下手をすれば、
検問所で兵士に詰問されるだけでなく、
ひん死の母親ともども
拘束されてしまう可能性もありました。
しかし、デジャニ先生は危険を冒し
母親の命を救うため
許可なく
イスラエルの病院の救急室に駆け込みます。
そこで受ける事が出来たのは、
ダジャニ先生のお母さんを助けようとする
イスラエル医療関係者たちの
必死の努力でした。
父親が受けたと同じ
国籍や政治背景を超えた
人間愛だったのです。
両親の故郷を奪った
憎いイスラエル人たちが
その両親の生命を救ってくれたのでした。
この経験からダジャニ先生は
大学で一つの学習カリキュラムを考えます。
「イスラエル人たちの苦しみも知ろう」
学生グループを連れ、
ポーランドのナチスのユダヤ人強制収容所、
世界遺産にもなっている
アウシュヴィッツを訪問するという
アカデミックな体験旅行の企画でした。
凄惨なホローコーストの現場に行って、
「敵」であるユダヤの民もまた
ナクバを、
苦しみを
経てきた事を
若い世代に知らせたかったのです。
「闘争の歴史に生きる私達に
残されたたった一つの方法は
相手を知り、理解し
相手への人間としての同情心を
引き起こす事です。
それ以外、真の平和への道はあり得ないのです」
ところが、
ダジャニ教授のこの企画は
大学長からのストップがかかりました。
それでも強行したグループ旅行中、
研究室が荒らされ、
ダジャニ教授更迭の運動がおこる
という問題に発展しました。
ポーランドに滞在中の教授に
「生命の危険があるから
大学に戻らないでください」
という研究室職員からの
電話連絡までありました。
ダジャニ教授は
パレスチナ人から「反逆者」と
みなされてしまったのです。
先のイスラエル人アブニール兵士も
上記の体験から退役し、
「沈黙を破る元兵士の会」を
発足させてます。
沈黙を保たず、
自分達が見た事、実際に体験したことを
人間の立場から語ろう、
イスラエル人もパレスチナ人を
もっと知ろう、
という趣旨のグループでした。
しかし、アブニールさんグループもまた、
敵側についたテロリストのシンパ、
祖国イスラエルを売る「スパイ」
と見なされてしまったのでした。
敵である相手側より
もっと手ごわい「敵」は
それぞれ自分達の
グループの中にいたのです。
私はこの二人の話をアメリカの
ラジオの番組で知りました。
アラブ、パレスチナ問題
イスラエル、難民…
穏やかなハワイに暮らしていると
また、日本やそのほかの地域で
聴いてくださっている方がたにも
たぶん、とても遠い世界のお話に思えます。
闘争が何十年も続く世界の地域の事は
自分には関係のない事だと
無意識に思い込んでいる
全く無知な自分を感じました。
しかし、
イスラエル兵士でありながら
パレスチナ人に気持ちを寄せたアブニールさん、
パレスチナ人でありながら
イスラエルの民の苦しみを知ろうとした
ダジャニ教授、
ラジオの話を聞きながら、
遠くの国に暮らす二人が
何故かとても近く感じられました。
そして、私たちの持っている問題にも
どこか共通点があるようにも
思えました。
ライフコーチやカウンセリングのお仕事は
例えば、
家族内の争い、
愛し合っている夫婦間の誤解、
職場での上司や同僚との問題、
決められない進路のことなど、
身近なテーマが多いお仕事です。
世界平和や難民問題などではなく、
毎日の心やコミュニケーションの
問題が多いようです。
それでも、番組を聞きながら
自分の生活やクライアントさんの問題にも
共通項があるのでは
と感じました。
その共通項は、
「相手を知る」という努力が
とても難しいという点でした。
そして、何か行動を起こそうとするとき、
一番の機動力になるべき
自分自身の中に
大反対の声が上がるという点も
似ている点だと感じました。
私たちの心の中には
「自分の立場を譲らず、相手を悪者にする」
という面もあります。
相手が
こちらを傷つけるような事をした、
ひどい事を言った、
無理解だった、
とする方がある意味楽です。
相手を指さして悪者にする時
人差し指以外の
指は4本とも自分の方を向いている
と言ったのは、
お釈迦様だったでしょうか。
イスラエルとパレスチナ難民のお話を聞いて、
もしかすると
「本当の敵は自分の中にいる」のでは
という点に思い入りました。
他人との関わり合いの中で
問題があると感じた時、
それは実は自分の中の問題ではないだろうか
と考えて見る事も
新しい視点をもたらしてくれるのでは
と思った
パレスチナとイスラエルの人々のお話でした。
レイチェルちゃんは
二歳の時始めてお父さんに
連れて行ってもらった時から
乗馬の虜になりました。
小さなレイチェルちゃんの足は
サドルの上の方にやっと届く程度、
大人が、しっかりと
支えてくれての「乗馬」です。
しかしその時から、
馬の匂い、
大きな美しい鼻づら、
長い脚、
包み込むような温かい眼、
皮膚から伝わってくる
その呼吸。
全てがレイチェルちゃんの
心をとらえてしました。
両親に何年もせがみ続け、
8歳で初めて乗馬のレッスンを
受ける許可をもらいました。
天にも昇る気持ちがしました。
ところが、
その日意気揚々と馬場に
出かけていった
レイチェルちゃんは、
乗馬の先生にこう言われました。
「無理よ、危ないわ。
ろうあ者に乗馬はできません」
キース君も似たような経験をしました。
彼の場合は
軍隊にあこがれました。
お祖父さんも大叔父さんも
第二次世界大戦の復員軍人、
子供の頃から戦争の歴史や軍服に
興味を持ち、いつかは
祖国アメリカを守る軍隊に志願したいと
思っていました。
高校卒業まじかに
ROTC(予備役将校訓練課程)に
申し込みましたが、
一喝の元、
「チャンス無し」
「ろうあ者のため資格なし」
と追い返されました。
キース君はろうあ学校の教員となり
歴史を教える道を選びました。
レイチェルさんとキースさん、
そして障害を持つ多くの少年少女たちが
社会が決めた「できない事」を信じて、
その通りだ、
自分はできない障害者なんだと
思って成長します。
手話を覚えても、
健聴者らの視線が嫌で
外では使わない。
アメリカでは
一般にろうあ者の学歴は低く、
健聴者の33%に比べ
ろうあ者は18%が大学終了。
米国ろうあセンターによれば、
失業率も健聴者の10倍近く
という報告があります。
聞こえないという身体の一つの特徴が
その人全体を「障碍者」と
定義してしまう社会で、
自己喪失、セルフダウトに
陥る人々が多い事を
語っていると思います。
話は飛びますが、
最近、ベトナムのホーチーミン市を
旅行する機会がありました。
道に迷ってしまった私と相棒は
とある小洒落た横丁に入り込み、
そこで落ち着いた
フランス風のカフェを見つけました。
そこは「ブラン(白)」と
フランス語の名前が付けられていました。
ふらりと立ちよったカフェレストラン、
落ち着いたパンアジアの調度品に
静かな照明、
穏やかなレストランは、
入った途端、
何故か今まで入ったどのレストランとも
違うのです。
直ぐに、待合室のラウンジに通されました。
やがて二階からさっそうと降りてきた
にこやかなウエイター氏に
ささやくような声で
こう質問されたのです。
「私達の世界にようこそ。
ここがどんなレストランか
ご存知ですか?」
千と千尋の神かくしの世界に
入り込んだような
不思議な気持ちになっていた私達に
そのウエイター氏は説明しました。
「ここはろうあ者が働くレストランです。
ウエイターやウエイトレスたちは
皆、ろうあ者です。
中には私のようにエイドを使って
少し聞こえる者もいます。
ここにいらっしゃったお客様に
最高のお食事と
ろうあの世界を体験し
素晴らしい食事を満喫していただくのが
このレストランのミッションです」
ウエイター氏は、
戸惑っていた私達を
階上の5テーブルがある
こじんまりとした
ダイニングルームに案内してくれると、
各テーブルに備え付けられた
手話のガイドを指さしました。
「アメリカンとフランスのサイン、
それにベトナム語のサインが混じった
手話です。
どうぞ楽しんで試してみて下さい」
そして、
文字通り「目は口ほどにものを言う」
を絵にかいたような
更にもっとにこやかな
若くてハンサムなウエイター君が登場し、
私たちのにわか手話による注文を
それは、それは、
うれしそうに聞いてくれたのです。
「あ・り・が・と・う」
「お・い・し・い」
照れ臭いけど、
下手くそな手話が通じた時の歓びは
始めてのうれしい体験でした。
健聴者のほとんどが、
ろうあ者の世界を知らずにいます。
家族や友人にろうあ者がいなければ
自分に関係のない事
と思って暮らしています。
私ももちろんその一人でした。
でも、このベトナムの経験から
ろうあの世界は
障害の世界ではなく、
違う文化を持つ世界なのではと
始めて気が付きました。
自分に備わっている事は当たり前、
ない事ばかりに
不満足を感じて生きている
私などは、
出来る事とできない事を
誰かに言われると
直ぐ「あー、やっぱりそうか」
と考えて生活してきました。
例えば、子供の時から
「女の子は理科系が不得意だから
女医さんは少ない」と言われて
「あーやっぱりそうか」と、
医者になる道はさっさと諦めました。
数学は自分には向いていないのかな、
と思ったセルフ・ダウトを
やっぱりそうだと
周りから言われるままに納得しました。
ろうあ者は
私の「女子は理数系が不得意」
などというレベルでなく、
生活のあらゆる分野で
「貴方にはそれはできない」
と言われて生活しているのだと思います。
レイチェルさんしかり、
キースさんしかり。
しかし、彼らは、
自分の夢をあきらめたでしょうか。
答は「ノー」です。
勿論、
ろうあ者として健聴者にない
制限がある事はそれぞれ認めました。
しかし、
それをハンディと思うのは
他人の勝手、社会の勝手、
自分にはこの部分以外にも
沢山の素晴らしい点があると
何度も自分達に言い聞かせました。
レイチェルさんは、
耳が聞こえずとも
馬に乗れるという事を
信じる先生を見つけ出しました。
キースさんは、
自分はろうあ者の先生になってからも
将校予備訓練課程の授業の部分を
手話通訳を通じて受ける事を
選びました。
出来る事と
出来ない事が
暗黙の了解がある社会で
二人はそれを鵜呑みにしなかったのです。
(私は情けなくも「女子は理数が苦手」を
そのまま、たっぷり鵜呑みにしました)
レイチェルさんのご両親は
健聴者でしたが、
アメリカンサインランゲージ(ASL)という
手話を娘と一緒に学びました。
両親がサインできる場合、
ろうあの子供たちの学歴が
飛躍的に伸びるという統計があるそうです。
聴覚障害者(hearing impaired)
という呼び方も、
出来るべき事が
出来ないという前提に立っているとして
レイチェルさんは、
使わないと決めました。
自分は聞こえる文化と
聞こえない文化の真ん中に立っている人間だと
自分を考える事にしたのです。
愛する乗馬の訓練を
何年も続けたばかりか、
アメリカの名門大学スタンフォードで
英文学を専攻、
卒業後はローズ奨学金を得て、
イギリスはロンドンの
オックスフォード大学に
奨学金留学をしました。
今は、ろうあ者の文学の研究を
博士課程で勉強しているそうです。
一方、ろうあ学校の教員キースさんも、
軍隊にはいるという夢を
決してあきらめませんでした。
予備将校が参加すべき
教室での受講だけでなく、
実地訓練にも参加し始めます。
「参観だけなら」と渋々認めた
教官にも、始めは
「お前はそこに立って見ていろ」
と言われました。
他の訓練兵は皆支給されているのに、
1人だけ軍服を着ることなく
Tシャツとジャージーで参加しました。
耳の聞こえない兵隊予備兵に
軍服は支給されなかったからです。
それでも毎朝5時からの訓練にも
めげずに参加しました。
たとえ立って見ているだけでも、
自分の夢に一歩でも近づく、
それが一番の近道としんじました。
実際に行列参加を許されるのに
数週間待ちました。
それもやり通しました。
彼の熱意をクラスメートたちや
教官たちが感じてくれたからでした。
行列行進に参列した初日
二列目に立って前方の人を見ながら
やってみようと思った所、
教官が大声で言いました。
「一番の兵隊になりたいんだろう。
一番前に来い。
皆をリードしてやれ!」
この言葉が、
キースさんがそれまで持っていた
自分のセルフダウトを
吹き飛ばしました。
ろうあ者だから、
女だから、
お金がない家庭で育ったから、
これがないから
あれがないから、
私たちが自分で決めて信じ込んでいる
「出来ない」という小さな声、
社会に言われて信じてしまった
根拠の薄い信念、
セルフダウトのその声を
私たちは
いつも聞いて生活しています。
その声はいつまでたっても
たぶん、
ぶつぶつ言い続ける事でしょう。
その声を聴いて納得するのも貴方、
その声を聴いても
鵜呑みにしないのも貴方。
自分の本当の声を見つける
選択肢は
いつも貴方自身にあるということを
レイチェルさんとキースさんのお話が
教えてくれるように思います。
今度ベトナムに行く機会があったら、
今度は、
ろうあ者レストラン「ブラン」の姉妹店
盲目者が働く真っ暗レストラン
「ノワール」を
是非訪ねてみたいと思っています。
100年以上前、
ドイツ軍とイギリス軍は、
極寒のベルギーを舞台に
血みどろの塹壕戦を
繰り広げていました。
第一次世界大戦が開始した頃のお話です。
雨と雹で凍った泥水に
何日間も腰までつかりっぱなしの
両国の兵隊たちは、
銃撃で死亡した仲間を
手厚く葬ることはおろか、
降り続く雨や雪で崩れていく塹壕の
修理すら、ままならない状態でした。
時々、肉眼で見える至近距離で
塹壕の修復をしている時、
暗黙の了解で
お互いが攻撃をし合わない事もありました。
敵味方とはいえ、
お互いがどんなにみじめな苦しい
状態でいるかを
知っていたからです。
1914年のクリスマスの日の
こんな出来事が
歴史の本に書かれています。
その日お昼ごろ
英国の兵隊たちは
「聖しこの夜」の歌声が
敵側から聞こえてくるのに
気が付きました。
英語のSilent Nightは
ドイツ語ではStille Nacht、
歌声ももちろんドイツ語です。
そのうち、片言の英語で
「君たちも歌え」という声がしました。
イギリス兵たちは、
濡れて凍える体を温めながら
英語の歌を返しました。
お世辞にも
上手とは言えない歌声でしたが、
疲労困憊した兵隊たちにできる
精いっぱいの歌声でした。
ドイツ側の塹壕から
次々にクリスマスキャロルが
聞こえてきました。
言葉は違っても、
歌のメロディーは
イギリス兵たちも
子供の頃から聴いている
懐かしい歌でした。
銃撃戦ならぬ
クリスマスキャロルの歌の交換が
暫く続きました。
「英国人たちよ。メリークリスマス!」
ドイツ兵がそう呼びかける声が聞こえました。
「今日は攻撃は、なしだ」
どちらかともなく
クリスマスの停戦が提案され、
銃弾の音も、歌声も
一時、終わった戦場に、
この時を利用して
斃れていった戦友たちの
墓穴を掘り、十字架を立てる
姿が見え隠れしました。
この時の様子が古い写真に残されています。
そしてどちら側からともなく
塹壕の上に
ランプとヘルメットが並べられ
そこにろうそくの灯が何本かともされました。
ランクの上の将校たちが
数人ずつ互いの塹壕から出ると
ノーマンランドと呼ばれる中立地帯に
歩いて行きました。
ドイツ人たちは、
煙草、軍服のボタンなどをギフトに、
イギリス人たちは、
イギリス煙草と
とっておきのクリスマスプディングを
ギフトとして差し出しました。
クリスマスの日聖歌を歌い、
自主停戦でギフト交換した
英国と独国の兵士たちは
その後サッカーの試合をしたのだそうです。
100人もの参加者があったという
証言があるそうです。
この話は、
軍隊の歴史に確証はなく、
兵隊たちの私信が伝えた
現代の伝説です。
後にこれを知った両国の司令官は
当然ながら怒り狂い、
それ以降の自主停戦は
軍法会議送りそして銃殺の罰則が
課される事になりました。
停戦が休戦に発展する事は
ついにありませんでした。
しかし、
歌を歌い、ギフトを交換し
サッカーボールを
一緒に追いかけた兵隊たちは、
それ以降、
互いに相手に銃口を向ける事を拒否し、
前線から僻地に飛ばされてしまったという
記録があると伝えられています。
時代は進んで第二次世界大戦中。
ポーランドのある町かどを
ユダヤ人の男の子が小走りに
家路に向かっていました。
戦火が激しくなり、
周りからユダヤ人家族が
次々と消えていく毎日、
少年はその日
運悪くドイツ軍の兵隊たちが
やってくるところに
出会わせてしまったのです。
これは戦争に生き残り
そののちアメリカ移民として育ち、
心理学の先生となったある教授の
幼い頃の思い出話です。
少年が見ると、その中の数人は
黒い軍服を着ています。
たった10歳だった男の子にも
黒い軍服はナチス警察のゲシュタポ。
泣く子も黙るという
恐ろしい軍人であることは
知っていました。
寒い冬オーバーで隠されてはいても
その下の穴のあいたセーターには
ユダヤ人とわかるダビデの星が
黄色く大きく縫い付けられていました。
数人のゲシュタポのうち
背の高い一人の軍人が
つかつかと少年の所に
寄ってきました。
すくみ上っていた少年に
歩み寄った軍人は
ドイツ語で何か話しかけてきます。
そして、少年の横に跪くと、
不安と恐ろしさで硬直した少年の
小さな痩せた体を
力いっぱい抱きしめたのです。
さらにあろうことか、
目に涙をうかべながら、
懐の紙入れの中に
丁寧に包まれていた
写真を取り出しました。
ドイツ語は分からなくても
その写真が、その人の息子である事が
分かりました。
ユダヤの少年とその息子さんは
同じ位の年齢で
茶色い巻髪や、細く繊細な顔などに
共通点がある事が見て取れました。
恐らく
ドイツの軍人は
ユダヤの少年を見て、
心から懐かしく感じたのでしょう。
抱きしめたままの少年に
仕切りに何か言葉をかけると
愛おし気に少年を見つめ、
最後は小さなお菓子の袋を取り出して
少年に与えました。
空襲の中を走って帰った少年は、
残念ながらそのお菓子を落としてしまい、
口にする事はありませんでしたが、
その時の不思議な経験を
何十年もたってからも忘れることは
なかったそうです。
私はこの二つのお話を聞いた時、
今アメリカが作り上げようとしている
「壁」の事を考えました。
現大統領が選挙公約し、
アメリカ政府一時閉鎖につながった
アメリカとメキシコとの間に
建てようとしている
長くて、高くて、頑丈な壁の事です。
政治的な思惑の正否はともかく、
実際の壁は、心の中の壁が
具体化したものである事が
多いように考えます。
昔から人間は
一つの地域と
もう一つの地域との間に
一つのグループと
もう一つのグループの間に、
いろいろな壁を作って来たのだなあと
思います。
中国の万里の長城から始まって、
中世では城壁やお濠など
近代になってからも
ベルリンの壁、
サウジアラビアとイラク国境の壁、
相手が押し寄せてこないように、
そして壁のこちらの安全を守るために
いろいろな壁が立てられてきました。
でも、
壁が作られると
その壁はいつかは必要がなくなって
取り壊されるか、
廃墟となり、
時には観光名所となったりします。
人間はこうした壁を
幾つもつくって来たばかりでなく。
知らず知らずのうちに
相手が押し寄せてこないよう、
自分を守るように
心の中にも
壁を作っているようにも思います。
自分を守る事は
大切であるのは当然ですが、
それが、いつしか相手を
受け入れられない壁となり、
自分と相手、
自分の属するグループと
属さないグループとを
分断する壁となってしまって
いないだろうかと考えました。
戦争は「私達」と「あの人達」
の間に起こってきました。
あの人達が悪いから、
あの人達が攻撃してくるから
壁を作ろうと。
壁の向こう側では
「あの人達」がこちら側を指さして
同じように
「あの人達」が悪いと言っているのです。
クリスマスキャロルの
歌声を響かせた兵隊たちのように
愛する息子を抱きしめた
ドイツ兵のように
「あの人達」は
また、
「私達」なんだと
気づくことがあったなら、
壁は必要なくなるのではないか
と考えたりします。
たとえ作っても、
壁はいつかは崩れます。
壁はいずれは、
観光名所程の役割しかなくなってしまいます。
心の壁を立ててしまう前に
壁のこちら側とあちら側の
本当の違いなんてあるのかなと
ちょっと
思ってみたいものです。
2017年5月
ホノルルの病院の定期健診で
「悪性大腸癌の恐れがある」との
結果が来た時、
真弓さんはすぐ、
「あらいやだ、病院は間違えてる」
と思いました。
健康保険では、
50歳を過ぎたら
大腸癌の検便は定期的に
受ける事を推奨していました。
でも、
6月はちょうど大忙しの時期。
ハワイでウエディング専門の
美容師とヘヤ、メイクの
アーティストをしている
真弓さんのスケジュールは
びっちり詰まっていました。
元気を絵に描いたような
真弓さん、
業界では引っ張りだこ。
嫌と言えない性格と
持前の頑張り屋、
頼まれれば、
仕事があるのはありがたい事だと
出来るだけ引き受けていました。
健康管理のために、
時々鍼の先生に通っていましたが、
先生も、
「真弓さんは『元気、良過ぎ病』ですね」
と、太鼓判を押してくれていました。
「一度なんか、鍼の先生が
冗談でなく、
治療前に氷枕をくれたんですよ。
『ハイの状態なので
少しクールダウンさせましょう』って」
けらけらと笑う真弓さんから
癌患者を想像するのは難しい。
ですから、ご本人も、
再検査の結果の
大腸癌という診断を、
「これは何かの間違い」と
思い続けたのも当然でした。
自覚症状がないばかりか、
その頃は、
いつもよりも元気があるようにさえ
感じていたのですから。
国際結婚をして
一人娘も育てあげ、
今ではハネムーンメッカの
ハワイでは引っ張りだこの
メイクアップアーティストです。
自分に癌がある、
という事を
どうしても受け入れなかった
数週間が過ぎ、
次には「大腸癌って何だろう」と
徹底解明するぞと
意気込んだ時期が続きました。
細かくノートを取り、
インターネットを調べ、
体験者や医療関係者の情報を
毎日、読みまくりました。
癌とは何か
大腸って、
お腹の中って、どうなっているのか、
何が癌を自分の中に作り出したのか、
どんな検査をするのか、
摘出手術について、
手術後の治療方法、
大腸癌に関する事なら何でも、
調査する時期が続きました。
心のどこかで癌を
他人事のように感じていた面も
あったのかもしれません。
御主人以外誰にも知らせず、
日本の両親にも
米国本土で大学に通う娘さんにも
しばらく伝える事を控えました。
心配させたくない
という事もありましたが、
自分で納得がいくまで
待ちたかったのです。
日本では男性11人に一人、
女性14人に一人が
かかると言われている大腸癌。
国立がんセンターのデータによると、
大腸癌による死亡者は
男性が肺癌、胃癌についで三番目、
女性は癌死亡者のうち、
大腸癌が第一位という病気です。
一日も早く癌削除の手術の
日程を決めるよう
病院からは催促の電話が
かかって来ていました。
勿論患者さんである真弓さんの
健康状態を第一に考えての事です。
しかし、真弓さんはまだ
納得ができませんでした。
何故だかわからない、
でも、私の体が作った癌なら、
作った原因を追究して、
「私が治してあげなくちゃ」
それに納得がいくまで
時間が欲しかったのです。
何度もかかってくる催促の
電話の看護師さんに
「私が納得したら、
こちらからかけます。
少しほおっておいてください!」
とブチ切れてしまった事も。
私の体、私の生活、私の癌は
医者や病院に
本当にはわかってもらえない。
私が分かってあげなくちゃ、
真弓さんはそう考えたのだそうです。
「癌ができたってことは、
そういう生活をしていた、
そういう食事をしていた
ってことでしょう。
癌の要因は誰でも皆にある、
でも免疫がちゃんとしていると
癌にならない。
私は何等かの理由で
免役がさがっちゃって
癌ができちゃったらしい、
それをちゃんと理解しないで
医者の言う事を鵜呑みにして
手術だ、
放射線治療だ、
抗がん剤だって
そういうことはやりたくないって
思ったんです」
手術は受けないと決めた真弓さんも
「お願いだから
医者のいう事を聞いて
手術を受けて欲しい。
どうか家族の事も考えて」と
嘆願するご主人の言葉に折れて、
癌発見後2か月少しで
摘出手術を受ける事にしました。
ところが、
開腹手術の結果は、
癌細胞の75%しか摘出できなかった
という事でした。
残りの25%の癌細胞は
抗がん剤の治療で
治すようにと、
病院から勧められてしまいました。
「抗がん剤は使いたくない、
残りの25%は私が治す、
私が作った病気は最後には
私しか治せない、
私が私の主治医、
だって、自分の命は自分のものだから」
強い決心が心に湧いてきました。
どうしても帰る必要があったため、
手術後一か月後に
日本に一時帰国し、
人間の持つ自然治癒力をサポートする
気の先生などに会う機会がありました。
治癒力を高めて、
癌など重病を治したという
高名な先生たちでした。
真弓さんは日本に戻ってみて、
自分で治すという信念をもっと強く
しました。
ハワイに戻って一週間後、
抗がん剤の治療が始まるはずでした。
しかし、
真弓さんはキャンセルします。
がんは治る、
がんは治す、
絶対大丈夫と
自分の信念を曲げなかった真弓さんです。
自分なりに考えた食事療法、
毎日の人参とリンゴとレモンのジュース、
体を温める事、
海辺を歩くなどの歩行運動、
次々に自分で決めた
免疫強化法を試して行きました。
ダイヤモンドヘッドの下での
毎日欠かさぬ瞑想、
心臓に手を当てて毎日一分間、
「ありがとう、ありがとう」を
120日間唱える事。
自分の人生への感謝の気持ち、
癌という人生の貴重な「教材」をくれた
体への大感謝。
絶対に治るという気持ちは
一時も揺るがなかったと言います。
勿論、癌が残っているにもかかわらず
治療を拒否した時には
強い不安を感じました。
「これでよかったんだろうか」
崖っぷちから飛び降りるような
人生で最大の決断でした。
でも決めた途端、
不安や怖さが
どこかに行ってしまったのです。
大丈夫、私の体は
私が一番よく知っている、
自分の中の治癒力を絶対に信じようと
医学のみに
頼らない生活を続けました。
そして、手術後半年、
2018年の3月です。
検査の結果、
移転がないばかりか、
25%残っていた大腸癌は
真弓さんの体から
跡形もなく消えていたのでした。
それはミラクルでした。
確かに切除し残した癌がまだ
大腸内にあるはずなのに。
癌細胞の影は嘘のように
奇跡のように、
消えていたのです。
「不思議と言えば
不思議なんですけど、
同時に『やっぱり思った通り』って
思っている自分もいるんです。
絶対に大丈夫って思っていましたから」
大腸癌というチャレンジを
「よい教材」に変換させてしまった
真弓さん。
出来ると信じて
自分にできる事は精いっぱいやって、
乗り越えました。
癌を残らず切除できた後でも
医学的にいえば、
再発の恐れがあるため、
5年間の再発がなければ
完全に治った、つまり完治した
とは言わないそうです。
手術後現在でまだ1年半の今の時期、
完治していない真弓さんですが、
自分の体が変化を起こしているのが
分かるのだそうです。
毎日、心も体も浄化して生きる真弓さん、
ハワイは特別な場所に感じます。
自然からの治癒の力が
自分の治癒力を
もっと強めてくれているようです。
ダイヤモンドヘッドが見降ろす
美しい緑のカピオラニ公園で
「大腸癌が教えてくれたレッスン」
をしみじみ感じて生きる真弓さん。
癌があってもなくても
やっぱり「元気良過ぎ病」の真弓さん。
「人生って
いろいろ教材がやってくるじゃないですか。
癌も教材じゃないのかなあって思います。
その教材を生かすのも貴方、
その教材を悪い事にしてしまう決定も
貴方が持っていると思います。」
最後に真弓さんから
皆さんへのメッセージです。
「本当に癌になってよかった。
全ての事がありがたく、
今、本当の幸せを感じています。
病を通し道が開けました。
私にとって考えられないほどの
すごいチャンスです。
これからは、世のため人の為を
考えて、人の気持ちに寄り添い
生きて行きたいです。
全力で寄り添います」
転んでもタダでは起きない
キャンサーサバイバーの心意気。
元気印だけでなく、
自分の学んだ事、
自分が体験した事を
他の癌患者の方たちや、
患者の家族に、
一人でも多くの人に知ってもらいたいと
いう真弓さん。
癌が教えてくれた
本当の強さと
本当の優しさを
シェアしてくださいました。
1991年に
バグダッドで生まれた
イラク人のズハールちゃんは
6歳の時にピアノを始めました。
始めてすぐ
ピアノが大好きになり、
お母さんに言われなくても
自分から一生懸命練習
するようになりました。
ズハールちゃんの指が
鍵盤に触れている時、
自分が大きな透明の
シャボン玉の中にいるようで、
外のいろいろなことから
自分が守られているような
安心を感じました。
ピアノの音が好き、
ピアノを弾いている自分が好き、
音楽に守られている
自分がとっても気持ちいい。
ズハールちゃんの生まれた国
イラクは
古代メソポタミア文明を継承する
豊かな歴史と文化を持つ国です。
国の8割はアラブ系ですが、
クルド人やキリスト教系の人々もおり、
国家は何年間もの間
分裂と闘争を繰り返してきていました。
人種や宗教の派閥、
世界有数の石油産出国である事などが
多くの闘争の
原因となっているのだそうです。
ズハールちゃんが生まれた年、
1991年は
イラクでは、
ちょうど湾岸戦争という
外国との戦争が
始まった年でした。
それも、一つの外国だけでなく、
沢山の外国、多国籍軍が
イラクを攻撃してきたのです。
それは、イラクが
お隣のクエートに侵攻したのが
間違っているという理由でした。
空には戦闘機が飛び交い、
ティグリス川に囲まれた
美しい中世都市バグダッドにも
毎日のように爆弾が落とされて、
陸にも外国からの兵隊さんが
やってきました。
怪我をする人や死んでしまう人も
いました。
危険を避けるため、
外国の知り合いを頼って
故郷を去っていく人も
沢山いました。
クラスメイトも
一人二人と
いなくなりました。
シャボン玉の外は
爆弾で破壊されたビルや
倒れた電柱や怪我をして泣き叫ぶ人の
世界でした。
毎日、恐ろしい事が起こっていると
ニュースが伝えていました。
自動車爆弾が破裂し
それに巻き込まれて
亡くなってしまったクラスメートもいました。
ピアノが、音楽が、
そんな外界から
ズハールちゃんを
守ってくれるような気がしました。
ズハールちゃんのご両親は
若い頃イギリスで教育をうけた
教養人たちでした。
イラクやアラブの文化を大切にしつつも、
世界には沢山の文化、言語、宗教が
ある事を
ズハールちゃんに教えてくれました。
その両親は
ズハールちゃんがまだ
中学生になったばかりの頃
不幸な事に亡くなってしまいました。
バグダッドにある
「音楽バレー専門校」に
入学していたズハールちゃんは、
不安や悲しみを音楽で癒しました。
音楽はズハールちゃんを
守ってくれましたが
バグダッドの街は次第に、
バイオリンのケースを
持って歩いているだけで
逮捕されるような
危険な風潮が広がっていました。
軍事国家だった日本でも、
第二次世界大戦中は
髪の毛にパーマをかけていたり、
西洋志向の人は
非国民と呼ばれた事がありました。
イラクでも同じでした。
ベートーベンやバッハなど
西洋の音楽やバレーを、
表立って練習したり
演奏したりが
難しくなってきていたのです。
イラク人を苦しめている
外国の音楽を演奏するなど
とんでもない事だと
考える人がいたからです。
学校に来るときも
銃を持った兵隊さんが
護衛してくれないと
危険でした。
爆撃でピアノを破壊された
クラスメートもいました。
ズハールちゃんの尊敬していた
ピアノの先生も
身の危険を感じて、
国外に去って行ってしまいました。
国に残された音楽家の卵たちは
見よう見まねの
自主学習をする以外
音楽を続ける方法はありませんでした。
ズハールちゃんは17歳になりました。
生まれてから
戦争しか知らない少女は、
それでも現代の子です。
ソーシャルメディアで
世界の音楽家たちからの
情報を得ようとしました。
そして、
自分と同じように、
イラク国内でも、
同世代のミュージシャンたちが
音楽を続けている事を
ネットで知りました。
師事する先生も、学校も
時には楽譜も
楽器もない状態でも、
音楽を愛する子供たち、
若者たちがいるのです。
そして、こう思いました。
「イラク全国の
私のような音楽家たちに、
声をかけたらどうだろう。
私だけじゃないはず。
皆、音楽を続けたいって、
思っているんじゃないかしら」
ズハールちゃんが考えた事は、
イラクの若手音楽家の
オーケストラを作るというアイデアです。
勿論、
お金もない、
スポンサーもない、
楽器もない、
戦争中に音楽そのものを
応援してくれる人もほとんどいません。
オーケストラをどう作るのか
そのやり方もわかりません。
やった事もないのですから。
でも、やってみようという気持ちが
ふつふつと湧いてきたのです。
好きな音楽で
イラクの若者たちをつなげよう。
やりたいって思っている同世代が
絶対いるはずだ!
大人たちが戦争をして
破壊ばかりしているなら、
私たち若者は
音楽を続ける!
音楽は私を守ってくれて来た、
イラクにハーモニーを取り戻したい。
音楽がきっとその架け橋になる。
どうして、病院や学校をつくらないの?
と聞いた人もいました。
道路や建物を作る方が先なんじゃないの?
私が好きなことで、
私にできる事で、
希望を取り戻したいの。
それが、ズハールちゃんの返事でした。
イラク中に散らばる若い音楽家たちと
ズハールちゃんは
インターネットでつながりました。
選抜のオーディションも
youTubeやスカイプで
実行しました。
40人の宗教も言葉も違う
一人一人の若者たちが、
同じイラク、
同じ音楽への情熱で集まりました。
コンダクターはスコットランド人の
音楽家が買って出てくれました。
これもネットの力です。
イギリスの新聞に
戦争中のイラクの若者たちが
オーケストラのコンダクターを
探していると
紹介してくれたからです。
小さな指でピアノを弾いていた
ズハールちゃんは
今はもう27歳になりました。
アラブの女性で、
音楽家で
諸外国の社会の外と繋がって
音楽を通じて世界に
希望を呼びかけるスハールさんは
危険を感じながらでも
活動を続けています。
このグループは
ナショナル・ユース・オーケストラ・イラク
(NYOI)と呼ばれています。
14歳から29歳までの
若い音楽家たちが
戦火の中で作り上げたオーケストラです。
2014年、
イラクの若者たちのオーケストラは
アメリカまで演奏ツアーをする
機会にめぐまれました。
しかし、残念ながら、
イスラム過激組織「イスラム国」ISISの
活動が活発化し、
アメリカ政府は
イラクからの青少年のビザを
寸前で取り消してしまいました。
暴力と恐怖と憎しみを広げようとする
人々や組織や国家があると同時に、
ズハールさんのグループのように
ないないづくしでも
希望と夢と音楽を
忘れまいとする若者たちもいます。
このお話を聞いて、
私は自分の反省をしました。
平和、
安全、
希望、
選択肢、
いろいろな分野の素晴らしい先生がた、
ズハールさんやイラクの若者たちに
無いものが
私や私の周辺には
当然のように存在します。
子供の時に
外で遊びたくてピアノのお稽古を
さぼってしまった事まで思い出しました。
ズハールさん達は、
「ない」という事に
負ける事なく、
「ない」から出発しても
どうやったら
夢を実現させるための行動に移すかを
自分にわかるやり方で
諦めずに挑戦しつづけたのです。
両親も亡くした17歳の
戦火の中の少女、
ズハール・サルタンさんは
彼女が情熱を傾けた事を
実行しました。
それは私や貴方が
情熱を傾けたい事とは
たぶん同じではないでしょう。
それはそれでいいと思います。
私たちはズハールさん達から
その勇気と実行力の
力をもらえばいいのですから。
前にも一度
ご紹介したことがありましたが、
ゲシュタルト精神医学の創始者と
言われている
フレデリック・パールズ氏の
「ゲシュタルトの祈り」
を今日は最後にお届けしたいと思います。
「ゲシュタルトの祈り」
私は私のことをします。
ですから、
あなたはあなたのことをして下さい。
私は、あなたの期待に添うために
生きているのではありません。
そして、あなたもまた、
私の期待に添うために
生きているのではありません。
あなたはあなた、私は私です。
でも、私たちの心が、
たまたま触れ合うことがあったのなら、
どんなに素敵なことでしょう。
でも、もしも心が通わなかったとしても、
それはそれで仕方のないことではないですか。
(何故なら、私とあなたは、
独立した別の存在なのですから…)
(Fritz Perls, Gestalt Prayer)
私たちの心が触れ合って、
1人ではできない事も
スハールさんが音楽を通じてしたように
実行する事が出来たら、
それはどんなに素敵な事でしょう。
ロンドンに住むケリーさんが
心理学のクラスに参加するのは
初めてでした。
無料で、かつ、
自分のペースでできる
オンラインのクラスがあると知って、
ちょっとチャレンジな
社会心理学というクラスを
受けてみる事にしました。
「人はどうしてある行動をとるのか」
というテーマに
とても興味を覚えたからです。
コースの先生は、
大西洋を越えた
米コネチカット州ウェスリアン大学の
スコット・プラウス先生。
オンラインとはいえ
宿題もでれば、クラスの討論も
ありました。
世界中の人とネットで繋がり
バーチュアルな世界で勉強するというのは
ケリーさんにとっては初めての
エクサイティングな経験でした。
そのクラスで一つの宿題が出ました。
「思いやりの日(Day of Compassion)」
というテーマでした。
何でもいいから、
見知らぬ人に、
自分ができる
思いやりの行動を一つしてみよう、
そしてそれによって何が変わったか
報告してください、
という内容の宿題でした。
40代のケリーさんが宿題をするのは
学校を出て以来久しぶりの事です。
ケリーさんは自分の仕事の退社後、
仕事からひける御主人を
待つ2時間の間、
よく公共の図書館で時間をつぶすのが
日課でした。
だから、
学生のように宿題をすることには
それほど違和感はありませんでした。
「私にできる思いやりの行動」って何かしら、
ケリーさんがそう考えながら
窓の外を見ると、
よく見るホームレスの男性が
目に留まりました。
ホームレスと言っても
せいぜい30代、
汚れた服装なのでもしかすると
まだ20代かもしれません。
ケリーさんがその若者に気が付いたのは
前からこの辺で見る人で、
ホームレスなのに
ニコニコとしている男性だなと
いう印象を持っていたからです。
通りがかりの人に小銭を頼む時も
何人かに一人が投げる小銭を
受け取る時も
いつも笑顔を絶やさない若者でした。
宿題の事を考えていたケリーさんは、
思い切って図書館の外に出て
そのホームレスの若者に近づきました。
でも、少し気持ちがそげて
最初の日は小銭入れの中の
数枚の小銭を渡しただけでした。
次の日は
外のカフェでご主人を待つことにして、
若者が現れるのを待っていました。
暫くすると、
いつものように若者がやって来ました。
ケリーさんは勇気を出し、
「コーヒーをおごるから一緒に座らない?」
と声をかけました。
若者はその前日、
小銭を恵んでくれたケリーさんを
覚えていたのでしょうか、
素直にケリーさんの座っている
窓際のカウンター席についてきました。
ケリーさんは
自分の名前を伝え、
時々若者に気が付いたことなど
毎日ご主人の仕事の終わるのを
待っている事など
ちょっと自分の事を
話しました。
若者は
サイモンと自己紹介しましたが、
始めは無口でした。
しかし、やがて少し打ち解けて
自分の事を話してくれました。
毎晩夜になると
ロンドン市内をぐるぐる回る
市内バスに乗る事、
襲われたりする危険もあるので、
後ろの方の席で小さくなって
暖かいバスの中で仮眠を取る事、
若者がどうしてホームレスになったのか
ケリーさんは聞きませんでした。
でも、「思いやりの宿題」を思い出して
ケリーさんは、
どうしたら私にできる範囲の
思いやりの行動が
できるだろうと考えました。
もう3年以上も故郷と
音信不通であると話す
若者の話の言葉の端々に
故郷のお母さんの事が出て来る
ことに気が付きました。
ケリーさんは
自分の携帯電話を取り出すと
サイモン君の
故郷のお母さんの電話番号を聞いて、
電話をかけたのです。
電話の向こうのお母さんは
消えてしまった息子からの
突然の電話に
とても驚いているようでした。
サイモン君は15分程お母さんと
電話で話した後、
ケリーさんに御礼を言いました。
「で、どうするの?」
ケリーさんは自分の性格には珍しく
少しお姉さんが
諭すように聞きました。
ニコニコしていても
もぐもぐと煮え切らない
サイモン君を
ケリーさんは
近くの長距離バス停まで
連れて行く事にしました。
お母さんの待っている故郷の町までの
片道切符を買って渡すと、
「さあ、これでよし。
お母さんの所に帰るのよ。
少し親孝行をして、
家庭料理を食べて元気を取り戻したら
またやり直せばいいわよ」
と伝えました。
サイモン君はケリーさんの言葉に
素直にうなづくと
長距離バスの乗客となって
ロンドンを後にしました。
ケリーさんに出された
オンラインコースの宿題の一部が
完成しました。
さて、本当の宿題はここからです。
宿題は「思いやりの行動をした後、
何が変わったかを報告せよ」
というものでした。
何が変わったのでしょう。
勿論、
ケリーさんにとって
普段しないような行動をとった事、
その結果、サイモン君という見も知らない
ホームレスの若者が
故郷に帰って行った事、
たぶんサイモン君のお母さんが
安心したであろうことなどが分かります。
ちょっといい事をしたなという自己満足も
あったかもしれません。
でも、ケリーさん自身
もっと深い何かが
変わったように感じました。
それは、
「ちっぽけな私一人の行動でも
誰かを助ける事ができる」
と感じた事です。
ホームレスの問題なんて、
私一人が解決する問題としては
大き過ぎ、
と無意識に思っていたケリーさんでした。
でも、この体験から、
たとえ社会の中の大きい問題でも、
私にもできる事があるのかも、と
自分の持つ力を確認できたのです。
オンラインのクラスのプラウス先生は
「人は他人に同情心を持ち、
それによって行動を起こす事で、
社会に変化を起こす力がある」と
教えてくれようとしたのです。
その変化は確かにちっぽけな事
かもしれません。
体制に影響は、
やっぱり、ほとんどないかもしれません。
でも、私にも何かできるのかも
と思ったケリーさんは、
その後オンラインの通信教育で
本格的に社会心理学を
学ぶ決心をします。
この経験から、
将来は、カウンセラーになりたいという
夢まで持ち始めたそうです。
たった一日の、
一人の人への
一つの行動でも、
相乗効果というのが
あるようなのです。
ケリーさんとサイモン君のお話は
私が昔読んだある医学研究の調査を
思い出させてくれました。
シュワーツ博士とセンド―博士という
マサチューセッツ州の
お医者さんのした研究です。
多発性硬化症の患者についての研究ですが、
比較的軽度の患者に、
まず傾聴のトレーニングを行い、
同じ病気を患っている
他の患者とペアを組んでもらいました。
ペアになった二人の患者は
お互い面と向かって会う事はなく、
名前もファーストネームで呼び合うだけで、
同病であること以外、
詳しいことは何も知らされません。
この患者ペアは、
一か月に一回15分間だけ、
電話で話す事になりました。
実験は2年間続きました。
会話の内容は
「やあ、そっちの状態はどうだい?」という
病気に関するものから、
家族、友人の四方山話、
心配事、思い出話など多岐に渡りました。
結果は大変ポジティブで、
話を聴いてもらっただけで、
患者の硬化症の進度は、
通常の平均速度に比べて
やや遅くなったのだそうです。
しかし、
私がこの研究結果で
特に注目したいと思ったのは、
「聴いてもらった方」に限らず、
「聴いた方」の患者にも、
ポジティブな成果が見られたことです。
聴き手は、
親身になって同病の
相手の話に耳を傾けました。
知らない相手に対し、
実験とは言え、思いやりの時間を
定期的に持ったわけです。
結果は、
聴いた方の患者の
2年間で硬化症の進み具合が、
聴いてもらった患者の進み具合より、
著しく遅かったのだというのです。
「聴く」という行為は、
そして
知らない相手にでも
思いやりを持つという行動は、
実は聴いてもらった人はおろか、
聴く人も一緒に癒す事が出来たのです。
ちょうど、ホームレスのサイモン君が
故郷に帰った事で、
ケリーさんは、
自分の行動の効果を自覚し、
ある意味自分の存在意義を
確認できたという例に
近いものがあるように思いました。
私は仏教徒ではありませんが、
お釈迦様が教える「六道万行」の
第一に上げられている「布施」
という行が素晴らしいと思っています。
これは、私たちが知っている
葬儀や法要などのお礼金として
お寺さんなどに渡す「お布施」の語源と
なった言葉ですね。
お釈迦様が言っている本来の意味は、
思いやる、そして
それを行動に移すという
六道万行の一つの事なのだそうです。
お金やリソースがある方は
それを使って布施をする事が出来ますが、
財力や権力などが無くても、
つまり私や貴方でも、
出来る思いやりの行動、
利他の行為を
仏教では「六道万行(または六波羅蜜)」
の第一の行と教えているのです。
難しい経典を開かずとも
また医学の研究や
社会心理学のコースをとらなくても、
私たちは「思いやり」が大切な事を
知っています。
それも、
本当に困っている時、
人からの思いやり程
心に響くものはありません。
新年の最初のポッドキャストで
ちょっと皆さんに宿題を出してみたいな
なんて思います。
もし、貴方にできる範囲で
普段ならしないような
思いやりの行動をする
チャンスがあったら、
是非、是非、
お話をシェアしてください。
どんな事が出来たか、
行動をとる時どんな気持ちがしたか、
何か変わった事があったか。
気が付いた事があったか。
皆さんからのお話をお聞きして、
もしできればこのプログラムでも
シェアさせていただければ
とっても嬉しいです。
皆さんにとって
新年も素晴らしく素敵に爽やかに
過ごす事が出来ますように、
心からお祈りしています。
1人の男が橋の上から
真っ暗な水面を見ていました。
今夜はクリスマスイブ。
先ほどから音もなく、
小雪がちらつき始めています。
手袋をしていても
橋の欄干をつかむ男の手は
川面と同じ位凍って
感覚がないほどでした。
水面を見ながら
「あそこに飛び込んだら、
どの位持つかなあ」
中年の銀行員は
そう考えてため息をつきました。
突然「私なら止めておくがね」
と、見知らぬ人の声がしました。
見ると、
着古したオーバー、
少し突き出た腹、
取り立てた所もない
赤ら顔の小さな老人が
後ろに立っています。
「何だって?」
男は突然現れた老人に不意を打たれて
言いました。
「君がしようとしている事だよ」
老人はしたり顔で言います。
「どうして僕がしようとする事が
分かるんだ」
「この商売をしていると、
分かるんだな、
こういうことがさ」
おせっかいな老人なのでしょうか、
当たり前のように言います。
何が入っているのか
セールスマンが持つような
古ぼけたバッグをもった老人の目は
思わぬシャープな輝きを
放っていました。
「この雪だと
明日はホワイトクリスマスかな。
お前さん、大丈夫なのかね」
「どういう意味だ、
大丈夫もくそもあるか、
ほっといてくれ。」
小さな町で
生まれ育った男は、
同じ町で一つしかない
銀行の窓口職につき、
可もなく不可もなく
結婚して子供を作り、
取り立てて変化のない
普通の生活をしていました。
しかし、心が
うつろに感じるのです。
何かが足らない。
このままでいいのかわからない。
もやもやが
実は心をとても苦しめていました。
振り払おうとしても、
心は意思に反して
どんどんと凹んでいくばかりでした。
「僕のことがわかるなら、
生きている理由って言うのを
教えてくれないか」
見知らぬ老人でも、
誰でもいい、
銀行員はやけっぱちな気持ちでした。
「君はまだ若い。
仕事もあり子供もいる。
今日はクリスマスのイブだ。
教会のベルが聞こえるじゃあないか。
それでは生きている理由に
ならないのかね?」
「僕は今まで生きてきて、
何も有意義な事をしたこともないし、
これからする事もなさそうだ。
今、消えてなくなったって、
誰も何も気にしないだろう」
銀行員は正直な気持ちを口にしました。
「僕はいなくなった方が
ましな人間なんだ。
最初から生まれてこなければ
良かったんだ」
老人は少し驚いた声を出していいました。
「何だって?
生まれてこなければよかった?
そうか、
それなら話は簡単だな。
その願いを叶えてやろう」
老人はそう言うと
「さあ」と、一言つぶやきました。
「お前さんは生まれてこなかった。
君の願いは叶ったよ。
仕事も、両親も、家族も
問題も、何もない。
何しろ生まれてこなかったんだから。
嘘だと思うなら
町に戻ってみたまえ」
一体このおいぼれは
何を言っているんだ。
銀行員は混乱し、
次第に腹が立ってきました。
老人はそれに頓着せず、
「おっと!忘れる所だった。
このかばんを持って行きなさい。
中に高級ヘアブラシが入っているから、
それを売って歩いている事に
すればよい」
無理やり鞄を押し付けられて
「待ってくれ、どういう意味だ」
と、まごまごしていると
老人はいつの間にか
雪の夜に紛れて
いなくなってしまっていました。
銀行員は半信半疑でしたが、
仕方なく、
鞄を持って冷たくなった体を引きずり
よく知った町の方に
とぼとぼと歩いて行きました。
途中で両親の家の傍を
通りかかり、
一言メリークリスマスを言おうと
ドアを叩きます。
家の中からは
老いた母が出てきましたが、
銀行員の顔を見ても
誰だかちっともわからないようです。
そこで、
老人に言われたように
セールスマンの口上を伝え、
「私は昔この町に住んでいた者です」
と言いました。
自分の弟のハリーの名前を伝えて
「ハリー君とは友人だったのですが、
元気にしていますか?」と
母に聞いてみました。
母はハッとして、急に表情を曇らせました。
そして、奥から出てきた父親に
「ハリーと友達だったなんて嘘っぱちを言うな」と
怒鳴られてしまいました。
「ハリーは9歳の時、水に溺れて
死んでしまったんだ。
とっとと、どっかに行ってしまえ」
と、父親に
門前払いを食わされてしまいます。
確かに9歳だった弟が
水に溺れかけた時の事を覚えていました。
しかし、自分が間髪入れずに助け、
ハリーはそのまま事もなく
学校を卒業したのです。
死んでしまったなんて、
なんていうことでしょう!!
自宅に戻る途中で
近所の知り合いに
すれ違って挨拶しますが、
胡散臭そうな顔で見られてしまいました。
やっと自宅に着くと
妻がドアに出てきました。
「何の御用ですか」と
これまた銀行員を他人扱いです。
老人に言われた
ブラシのセールスの口上を
あわててのべ
「これはクリスマスなので、
奥様に特別に進呈します」
と、青いブラシを差し出し、
その場をつくろうしかありません。
そこに我がもの顔で帰ってきたのは
学生時代の友人で
アートという名前の男でした、
自分の妻はアートと結婚していたのです。
アートは酒にしたたか
酔っているらしく、
ぶっきらぼうに妻にあたり、
「何だ、こいつは」と
銀行員を追っ払おうとします。
そこに家の中から
小さい自分の息子がチョコチョコと
走り出てきました。
可愛い息子です。
でも、顔はアートに
似ているではありませんか。
息子はおもちゃのピストルを
ドアに立つ銀行員に向けると
「バンバン!
お前なんか死んでしまえ」
と、撃つ真似をし始めました。
妻は申し訳なさそうに
「ごめんなさいね、
じゃあこの素敵なブラシは
いただくことにして、
もう貴方はどこか
別のお宅に行かれた方がいいわ」
と、ドアを閉めてしまいます。
しまったドアの向こうから
「バンバン、死んじゃえ!バンバン」と
子供の声がまだ聞こえました。
自分がいなくなってしまったという事が
一体どういう事なのかを
目のあたりにした銀行員は
一目散にあの橋まで駆け戻りました。
大変だ!
僕がいない事で弟が死んでしまった。
母が悲しんでいる。
妻があんな奴と結婚してしまった。
何てことだ。
戻してくれ!
元に戻してくれ!
僕の為だけじゃないんだ。
息せき切って橋まで戻ると
小さい赤ら顔の老人は
「やっと戻って来たか」
という表情で待っていました。
「お前さんが望んだ事だっただろう?」
「そうだった。でも、
もういいんだ。
元に戻さないと大変な事になっているんだ」
「そうか、そうか。分かったんだね」
老人は男に諭すように言いました。
「お前さんは素晴らしいギフトを
もらっていたんだよ。
それがわかったんだね」
クリスマスイブの
教会のベルは町中に響いていました。
「目を閉じて、
さあ、あの教会のベルを聞きなさい。
そして、
お前さんがもらった
最高のギフトの事を考えるんだ。
いいね。
生まれてきた事こそが、
最高のギフトなんだよ」
男のつぶった目の上にも
頬にもオーバーの肩にも
小雪が降り続けています。
男は急いで家に戻り
ドアを開けてくれた妻を
心からの感謝を持って
抱きしめました。
―――――
このお話は50年以上前、
フィリップ・バン・ドーレン・スターン
というアメリカの小説家が書いた短編です。
クリスマスイブの夜
人生に疲れた中年男が、
不思議な老人の助けで
人生の最高のギフトを思い出すという
筋書のお話です。
アメリカフィルム史上不朽の名作とされる、
『素晴らしき哉、人生(What a wonderful life)』は、
1946年に
ジェームス・スチュアート主演で
作られた映画ですが、
この短編を元に作られたものだそうです。
また、昨年2017年には
ウィルスミス主演で同じ映画のリメイクが
封切られています。
私たちはすでに持っているものは
当たり前の事だと思ってしまう
傾向があります。
健康もそうですし、
家族や友人、
仕事、自分にできる能力など
あるものはあって当たり前と
あまり振り返って考える事が
少ないのが現実です。
ないものに意識を集中させて、
あれもない、
これもない
まだ足らない、
もっと必要だと
自分で自分を追い込んでいる事が
多いように思います。
クリスマスや年末年始、少し振り返って
「私に与えられているギフトは何?」
と質問してみてはいかがでしょうか。
家族、
伴侶、
健康、
仕事、
友人、
知識、
思い出、
微笑み、
笑いやユーモア、
音楽、
希望、
私たちは何と多くの
素晴らしいギフトに恵まれて
毎日を過ごす事が出来ている事でしょうか。
最高のギフトのお話は
生きているという当たり前のことを
もう一度振り返る事を
教えてくれるように思いました。
最近あるアメリカ人ご夫婦と
夕食をする機会がありました。
御主人はハワイ大学の教授で
海の環境保全を研究している方です。
奥様の方は仏教に入信し
毎日の仕事や人間関係の中で
信仰の生活を
実行しているという女性でした。
その夜の話題は
自分が実際に経験した
人生の大切な体験
という話題でした。
外国に生活して
多くの人に助けてもらった経験から
私は、少しでも他の人を助ける事が
出来ればと思い
ライフコーチをしていますと
話しました。
オレゴン州生まれで、
今まで日本と
何の関係もなかった奥様は、
仏教の教えを通じて日本文化と
精神的なつながりを感じ、
それを一生の学びのテーマにしていると
話されました。
御主人のマークさんは、
ちょっとユニークなご自分の体験を
話してくれました。
ぶれる事なく自分の仕事を
続けてこれた根底になる体験は、
ビジョンクエストという
体験であるという事でした。
かれこれ20年前の事です。
まだ若手研究者だったマークさんは
自分の人生の目的は
何だろうという哲学的な問題に
心を悩ませていました。
海が好きだったマークさんが
選んだ海洋科学という専門分野でしたが、
学位を取った後、
政府レベルの環境問題の理解不足、
職場の足の引っ張り合い、
思ったよりうまく進まない研究テーマ、
更に高齢化する両親、
などなど、
何かしっくりこない、
何故か自分がわからない
そんな気持ちを持って
もんもんとしていた
毎日だったそうです。
そんな時、マークさんは
一か月ほどの夏季休暇を利用して
ワシントン州の山中で
アメリカネイティブに伝わるという
ビジョンクエストという
体験に参加する事にしました。
マークさんは、
実はその時、
ビジョンクエストが
一体何たるかを
正確に理解していたとは
言えませんでした。
ただ、ビジョンクエストを
体験をした同僚がいて、
参加後、
まるで人が変わったようになって
職場に戻って来たのを
覚えていました。
精神性の問題の
突破口を探していた
マークさんが
藁にもすがる気持ちで
飛びついたわけです。
ネイティブアメリカンの
多くの部族には
ビジョンクエストという
通過儀式(儀礼)が
伝わっています。
若者が大人になる前に
通らねばならない道で、
通過儀礼は
ネイティブアメリカンに限らず、
世界のあちこちの文化に
ある風習です。
日本でも昔、元服式がありましたし、
現代の成人式は
通過儀礼の一種と言えると思います。
ネイティブアメリカの
部族によっては、
荒野に飲まず食わずで
若者を一人置き去りにしたり、
奥深い山奥に連れて行って
ぎりぎりのサバイバル体験をする
過酷なものもあるようです。
それは幼児期を過ぎた子供が
一旦疑似的な死を迎え、
人生の目的を再確認して再生する
という意味を持つ
大切な儀式なのだそうです。
今まで、
自分の為だけに生きてきた若者が、
部族やグループなど
自分以上の目的を探す旅であり、
ビジョンクエストを
象徴的に「英雄の旅」と
呼ぶ学者もいます。
マークさんはその頃
40代の初めの中年で、
少年たちの為のビジョンクエストが
自分にどんな変化を持たらすのかは
未知数でした。
しかし、少し調べていくうちに
あるダコタ族の長老の
こんな体験談に巡り合いました。
「その日が来る何か月も前から
私は祈りを捧げました。
自分の心と体が過酷な旅に
耐えられる事を祈ったのです。
部族の長老たちやメディスンマンが
指導をしてくれました。
その日が来るとスエットロッジと
呼ばれる小屋に導かれました。
熱い石が焼かれ、
私は小屋の中で西側に座り、
東側に座った長老から
聖なるパイプを受け取りました。
東西南北にパイプを捧げ、
そこで鷲の羽根と
フランネルの布とを受け取り、
これからの精神の「旅」について
更に祈りを捧げました。
スエットロッジでは
水だけの断食が始まりました。
最後は水を飲むことも
許されませんでした。
その後長老が私を導き、
深い山の奥まで
1日半歩き続けました。
持って行ったものは
鷲の羽根と布と
聖なるパイプだけで、
話したり質問をする事は
許されませんでした。
長老が選んだ山の中の高台は
岩場で、樹木の向こうに
荒野が見渡せる場所でした。
私は長老の指示に従って、
そこに布を敷き、
四方向の地面に小さな
旗を立てました。
そして3日間
東西南北と天と地の
6方向に祈りを捧げました。
私はその場に座り続けました。
勿論飲まず食わずでした。」
ダコタ族の長老は
そこでスピリットからの
メッセージを待ったのです。
肉体的に極度の状態にある少年は、
象徴的な死を体験し、
「スピリットの声」、
「精霊の声」を聴いて
再生への道を歩む事が
出来るとされています。
身体の極限にあった
夢うつつの少年に
スピリットは、
動物や自然界の姿で現れ、
本来の生きる使命を
伝えてくれるのです。
この少年に示されたメッセージは、
フクロウのイメージでした。
何故生きるのか、
自分が存在する理由はなにか、
この生でどの役割を負って
行くべきなのか。
過酷なビジョンクエストを終え、
長老と共に戻った少年は
スピリットの声から
真の知識の解釈を受けます。
フクロウが示したメッセージは、
将来部族の長老となり
古代からの智慧を
部族に伝えていく事だと
理解します。
ダコタ族の長老の体験談は
そこで終わっていました。
マークさんは
科学者としての
訓練を受けたインテリで、
伝説や文化的な伝承に
尊敬は払うものの、
迷信などを
そのまま信じるタイプではありません。
しかし、その長老の話を読んだ時、
自分はこの体験をしなくてはいけない
と思ったのだそうです。
どうしてそう思ったのかは
今でもよくわかりません。
その話を読んでしばらくしてから
マークさんは
現代のビジョンクエストに
参加します。
ワシントン州の山の中での体験は、
準備期間を含めて
約一週間の体験でした。
生きる目的を探る人達は、
現代のビジョンクエストに参加して、
自分なりの答を見つけようと
するのです。
マークさんの参加したものは、
ネイティブアメリカンの
伝統的なものよりは、
勿論ずっと
安全性などを考慮したものでした。
断食は実行しましたが、
水分補給は許され、
必要があればトイレなども
行く事ができました。
夜はテントで寝る事も出来ました。
聖なるパイプに使われるらしい
麻薬などは一切使わず、
瞑想呼吸法とイメージを用いた方法で
これもまた安全性を考慮したもの
のようでした。
それが本来のネイティブアメリカンの
ビジョンクエストと同じかどうかは
マークさんにはわかりません。
しかし、数日間の断食の後に
荒野にテントを張り、
数日を過ごした
最後の晩の事でした。
テントの周りを
大きな動物が
動き回るような足音で
マークさんは夜中に目を覚ましました。
一瞬緊張しましたが、
恐怖心はありませんでした。
そして、テントの一番上の
透明なビニールの部分から
星空が見える事に気が付きました。
満天星の夜空でした。
動物の足音はすぐ消えて、
静寂が戻りました。
そして、突然
横になっていた自分の上に
大きな年老いた女性の顔が
見える事に気が付きました。
テントも星空も見えるのに
まるで黒板に
白いチョークで書いたかのように
老婆の顔も
輪郭がはっきり見えるのです。
マークさんは畏敬を持って
その老婆の顔を見つめました。
その顔は、
マークさんと
マークさんの周りとを
見降ろしているように見えました。
老婆は
マークさんを包み込むような
深いまなざしをしていましたが、
同時に
これ以上ないほどの
苦悩と悲しみの表情をしていました。
「地球が悲しんでいる」、
と、マークさんは思いました。
「ガイヤが悲しみを伝えている」、
海洋科学者のマークさんは、
どこからそんなことを考えたのか
わかりません。
しかし、深い理解がマークさんを
包んでいました。
僕たちを守っている
母なる地球が
心の底から悲しんでいるんだ。
地球の汚染を
海の汚染を
自然破壊を
ガイヤが憂えている。
その時、マークさんは
自分の人生の目的はこれだと
思いました。
生きている自分がいて、
その自分が
続けていくべき仕事は
これなんだ。
頭でわかったのではなく、
魂のレベルでそれが
分かったのです。
何も迷わず、
自分にできるスキルを持って
受けた教育と経験と研究をし続ける、
そして、
ガイヤの苦しみを少しでも
和らげる、
ガイヤの悲しみがわかる
次の世代を教育する、
それが自分の人生の目的だ。
それはとても深いレベルの
理解でした。
夢の中でありながら、
これ以上ないほどの
リアリティを持った
納得だったのです。
マークさんは
その時の畏敬の念を今でも
持ち続けていると言います。
そして、
それまでのもんもんとした
小さい個人の自分の悩みが
ガイヤの目から見たら
本当に小さいものである事に気が付きます。
自分の人生の目的の方向性を
はっきり示してくれた
そのビジョンが、
たとえ自分の勝手に作り上げた
イメージに過ぎなかったとしても
自分と深くつながっている事を
理解しました。
その時から
大学という場で
海洋科学という分野で
仕事を続けていく事の責任と自信を
感じました。
その気持ちは、
今でも少しも変わらず
強く感じているのだそうです。
たぶんもう60代近い
大学教授のマークさんは
多くの学生を教育し
全米でもトップの尊敬を受けている
海洋科学者です。
そのマークさんが話してくれた
このビジョンクエストの体験談は、
コーチングを受ける方がたに
是非聞いていただきたいお話だと
思いました。
自分の存在意味が分からず
苦しんでいる方が
多くいらっしゃいます。
「自分の存在の意味」なんて、
難しく聞こえるテーマです。
でも、
実は自分のすぐ手元に
その答えがある事が
多い事に気づかされます。
マークさんのように
山の中のビジョンクエストに
わざわざ出かけて行かなくても、
毎日の生活の中に
答があるのかもしれないと思います。
それを「精霊の声」と呼んでもよし、
「内なる魂の声」と呼んでもよし、
単に「本当に好きな事」
「本当にしたい事」と
呼んでもよし。
私たちにできる事は
ほんの少し自分との時間を取って、
その声に耳を傾ける事なのでは、
と思います。
それが見つかった時、
ガイヤも、
私達の為に喜んでくれるのではないか
と思うのです。
ジェイミーさんは、子供の頃から
男の子の遊ぶものには
興味がありませんでした。
母親や兄弟達が
呆れたり、
反対したりするのを横目に
髪の毛を長くのばして
カールをしたり、
トリートメントをしたり、
女の子が好きそうなことには
何でも興味がありました。
高校生になると
男子仲間の友達から
「シッシ―(女々しい奴)」
と呼ばれるのが嫌になりました。
自分のその女性的な面を
カバーするためだったのでしょうか、
高校を卒業すると、
思い切って米陸軍に志願入隊。
手先が器用だったので
技術畑で
昇進していきました。
24歳で結婚、
やがて一人娘もできて
IT関連のエンジニアとして
職業軍人の安定した生活を
続けました。
「あの頃はずっと『監獄』に
入っているようでした」
ジェイミーさんは
そう振り返ります。
男性の体を持って生まれたけれど、
心と頭は女性、
そんな自分は、
言葉にしなくても
周りの人に何となく
「あいつは変だ」
「あいつは違う」と
分かってしまいます。
軍隊の中では次第に
浮いた存在、
アウトキャストになって
しまっていたのです。
本当の自分に仮面をつけて
生きる毎日。
ある統計によると
男性の約3万人に一人
女性の10万人に一人が
生まれた時の性は
自分が心理的に感じる性とは
異なるという意識を持った
人々であると言います。
身体的に明確な男女差が
心の中の認識と違うという事は、
今までは一種の精神障害とみられ、
「性同一性障害者」
という名前まで付けられていました。
これは男性が男性を
女性が女性を愛する
同性愛の人達とは違います。
世界の文化でこうした人達は
歴史的にも存在していました。
例えば
中国はこうした人々が
多く宦官として宮廷に仕えました。
インドでは
肉体的には男性でありながら
女性のようにふるまう人々を
ヒジュラと呼びました。
ヒジュラは、宗教的な儀式を
つかさどる事が
多かったそうです。
イタリアでも
半陰陽の男性を
フェミニエリィと呼んで
認めていたそうです。
アメリカインディアンでは
Two-spiritsの人々として
障害ではなく、
一つの才能とみなしていたようです。
しかし、
現代のアメリカ社会で
ジェイミーさんの毎日は
社会に受け入れられない苦しみと
自分の心の中の葛藤の
連続でした。
軍から退役しても
本当の自分と
社会が認める自分とのギャップに
押し潰されるような
毎日でした。
自分が自分であって、
自分でない生活。
こんな人生に
一体意味があるのだろうか。
ジェイミーさんは
こんな苦しい毎日を
もう終わりにしてしまいたいと
何度も自殺を考えました。
やがて、
医者の勧めもあって、
トランスジェンダー、
性別を超えた「性別越境者」
つまり、
女性として生きるため
性転換を目指し
ホルモン治療をする事を決心
しました。
化粧をし、カツラを付け
スカートを履く生活を試します。
しかし、
女性になりきる事は
男性の肉体を持った
ジェイミーさんには
どこかに違和感が残ったのです。
結局、
性転換手術を受ける事は
断念し、
法律上の性別だけを
男性から女性に変えるという
決心に留まりました。
州によって異なりますが、
アメリカでの性別変更は
名義変更のように
書類の提出だけで
簡単に済むところがあります。
(日本でも平成15年から
性同一性障害特例法が認められ
一部の性別変更が認められるように
なったそうです)
ジェイミーさん一家が暮らしている
オレゴン州のポートランドも
進歩的な街でした。
ポートランドで
同じような苦しみを持った
トランスジェンダーの
グループに入って
サポートを得よう
としたこともありました。
しかし、
理解をしてくれると思った
トランスジェンダーの人々は
ジェイミーさんのように
身体的には男性のままで
心理的に女性である
という「中途半端」を
認めない人もいたのです。
トランスジェンダーなら
トランスジェンダーらしく
法律上だけでなく、
身体的有様も
女性になりきらなければ
認められないと言うのです。
ジェイミーさんは
このグループでも
自分がアウトキャストであると
感じました。
行き場のない自分がありました。
性別という根源的な自我が
社会に認められない苦しみは、
多くの人には想像もつかない苦しみだ
と思います。
ジェイミーさんはそこで
全米で初めての試みに挑戦します。
性別を変えるのではなく、
「第三の性」を認めるように
裁判所に訴え出たのです。
長年連れ添った
奥さんのサンディさん、
画期的な訴えに同調してくれた
弁護士、
そして理解を示してくれた
一部の仲間がいました。
男として生まれた
女になろうとした、
しかし、
自分は男だけでなく
女だけでもない。
そうした「分別」がない存在だ。
自分は男でもなく
女でもなく、
Heでなく
Sheでなく
Theyと呼んで欲しい。
これこそが本当の自分だ。
英語でnon-binary(非分別性)と
呼ばれる性を主張したのです。
医者や軍隊からの文書が提出され、
第3の性が
存在する事を主張しました。
結果は、
OKでした。
オレゴン州の判事が
ジェイミーさんの非分別性を認めたのです。
ジェンダーニュートラルが
存在すると、
アメリカの州の法律が
認めた最初でした。
ジェイミーさんのこのニュースを聞いた時、
私には始めての話なので、
大変違和感を覚えました。
今まで考えたこともない
非分別性という人々がいることは
自分の日常では
考えられない事だったからです。
しかし、
ヒプノセラピストや
コーチをしたりしていると
多くの方の
心の中のお話を聞く機会があります。
表面に出ている
社会的、経済的、文化的、肉体的
自己イメージと、
心の中の自分とのギャップがある
というお話は
思ったより多くの人が
してく出さる話です。
本当の自分の声を
始めて口にしたという方もいます。
いつも心の底にあった気持ちが
なんだかもやもやしてわからず、
ヒプノによって
認識できたという人もいます。
私たちは他人の
表面に現れたものだけを見て
この人はこんな人だ
と判断しています。
ネクタイをしていれば男性だ、
化粧をしていれば女性だ、
しかし、
化粧をしたネクタイの人には
どうしても違和感を覚えるのです。
それは育った時に
社会的にそう教えられて
信じ込んで来たからです。
他人にだけでなく
自分自身にもそうした
「信じ込み」を当てはめています。
白でも黒でもない
どちらともつかないものに、
自分にも他人にも
容赦がない事が多いようなのです。
私がジェイミーさんの話を聞いた時の
反応がそうでした。
しかし、
それはジェイミーさんの
問題だけなのではなく
私たちの許容の問題でも
あり得たのかもしれません。
そう考えると、
ジェイミーさんの話に
違った面から耳を傾けてみようと
感じました。
アメリカの科学ジャーナリストの
シャンカー・ベダンタム氏が
こんな事を言っています。
「自然は明瞭な輪郭を持っていない。
人間は全てに
明確な分別があると信じたがる。
例えば、この人種とあの人種、
この季節とあの季節、
この性とあの性というように。
グループAとグループBは
明確に違うと思っていても、
実は近づいてみると
科学的に
そんなに明確な輪郭がない事に気が付く。
むしろ、ぼんやりとぼやけている。
私たちはそのぼやけに対して
もっと寛容になる事が必要なのでは
ないだろうか。
それこそが本当の
インテリジェンスではないのだろうか」
と。
非分別性を主張し
Theyになった
オレゴンのジェイミー・シャウプさんは
特殊な例かもしれません。
しかしこの話を聞いて、
社会的にも大変難しい状況でありながら、
あくまで本当の自分を追求した
ジェイミーさんの勇気に
私は最後は
感動を覚えました。
皆さんはどう感じられるでしょうか。
「おはよう、早いね」
「おはよう、フィッシングかい?」
「いや、今朝はちょっとね」
「そうか、僕はダイヤモンドヘッドまで」
「サーフィンだね、今日も波がいいようだ」
サーフボードや釣り竿を
トラックによいっしょと乗せながら
ローカルの男性同士が
こんな会話を交わしていました。
“トークストーリー”
ハワイのローカル英語です。
ビーチのテントで
親戚のおばさんのガレージで
学校のキャンパスや
仕事場のコーヒールームで
ハワイの人達は
「トークストーリー」を大切にします。
誰がが入院した、
車の修理にいくらかかった、
何とかさんの息子はメインランドの
大学に入学できた、
どこどこのプレートランチは
オーナーが変わった
ちょっとした挨拶から、
何でもない四方山話は
ハワイのあちこちで
毎日交わされています。
今朝見た二人の男性の1人、
釣りに行く様子なのは
一目瞭然のおじさんですが、
「釣りに行く」とは言わないし、
それを聞いたやや若い方の
サーファーも
したり顔で聴いたりもしません。
ハワイの人は、
人との繋がり、結びつきの原点である
トークストーリーを大切にする一方、
言葉が持つパワーも信じています。
釣りに行くよ
なんて言ってしまったら、
海の魚たちに聞こえて
警戒させてしまう、
海の生命を少~し頂くのだから
なるべく平安を
崩さないようにしなければ。
「波が今一つだ」なんて言ってしまったら、
鮫の神、カモホライイが
機嫌を損ねるだろう。
海や山や風や虹への
こんな気遣いをしながら、
人間たちの生活の
トークストーリーを
大切にするハワイの文化。
ハワイに来たばかりの頃、
ローカル達がこうしてのんびりと
話し込んでいるのを見て、
おやおや、
これがハワイタイム、
これでは何事も時間通り
終わらないわけだ、と
と思ったことを覚えています。
忙しい東京から来たばかりの
20代の頃のことです。
レストランの人も
工事の人も
警察官まで
ニコニコとゆったりと
トークストーリーが多い。
オアフ島でもそうですが、
他島に行くともっと多い。
庭にできたマンゴやパパイヤを
腕いっぱい抱えて、
近所のおばさんがトークストーリーに
やってきます。
日本でいう立ち話とは
似て非なるもの、
近所同士、同僚同士、
自然や家族や周りを巻き込んで
皆がトークストーリー、
ハワイの人達の大切な
結びつきの方法だったのです。
でも、若い頃の私は、
のんびり、たらーりの
ローカルカルチャーに
今一つ満足できず、
「私は幸福を追求するのだ!」
と息巻いて、
アメリカ本土、アジアへと
島出をしてしました。
ハワイがのんびり過ぎて、
何だか物足らなかったのです。
アメリカでも良い大学を出て、
アメリカでも良い仕事について
アメリカでも良い伴侶を見つけ
アメリカでも良い家庭を持って
幸福な成功した暮らしをするのだと。
育った時代と田舎の家庭環境で
学校を出る事ができなかった
日本の父はいつも
「大学を出ていないから」
と、言い暮らしておりました。
高度成長の時代の
サラリーマンにとって
大学を出ていない事は
どんなに優秀でも
出世コースからの脱落を
意味していました。
私はその父の言葉を真に受けて
大学さえ出れば成功できるはず、
そうすれば幸福が手に入るはず、
幸福とは「大学を出る事」と
無意識に思い込んでしまって
いたようです。
それから何十年もかけて
大学二つ、大学院三つ
リサイクルできるほど次々と
学位を取りまくってしまった私。
外国に暮らし、
良き伴侶とみられた男性を見つけ
高級住宅地に家を買い、
良き家庭と見える家庭を築き、
最後に気が付くと、
虚しさと不平ばかりの生活に
暮らしておりました。
一時は発展途上国に暮らす機会にも
恵まれ、あっという間に
にわかリッチにもなりました。
為替レートのおかげで、
買いたいモノはなんでも
価格さえ見ずに
買えてしまう生活も手に入れました。
私は幸福になったでしょうか?
答は、ノーです。
あれがない、
これが気に食わない。
この人が嫌、
あれもだめ。
もっとどこかに幸福があるはず。
本当に人生ってこれだけなんだろうか?
人間の幸福追求を研究している
心理学者のエミリー・スミス先生は、
「人は幸福を追求している限り
本当の意味の幸せにはなれないものだ」と
言います。
幸せの青い鳥を探し続ける
私たちは、結局のところ、
自分の今持つ幸せを
味わえていない事になります。
幸福を追求しないなら、
私たちにとって
一体何が大切なのでしょうか。
スミス先生はこんな風に言います。
幸福を追求するのではなく、
生きがいを持つことだ、と。
生きがいがあれば
幸福はおのずとやってくる。
「生きがい」とは。
生きていく張り合い、
生きる意味でしょうか。
根源的哲学的意味も持つ言葉です。
大切な事は、
何となく幸せになりたいなあと
生きるという事ではなく、
生きるという事を
積極的に意識し、
毎日の中の実感としてとらえる事
なのだそうです。
ライフコーチをしていると
人生の上で何等かの危機が訪れないと
生きがいについて
また生きる意味について
あまり考えなかったという人が多い事に
気が付きます。
私もそうでした。
スミス先生は
生きがいは4つの柱からなるもの
だと説明してくれます。
一つは、人と人との結びつき
一つは、目的を持つこと
一つは、自分以上の何かへの超越を意識すること、
そして最後の一つは、
自分の真実の物語を語る
ストーリーテリングがある事
スミス先生のこの話を聞いた時
私はハワイの事を思いました。
ハワイの人々の在り方が、
まさに例えば
トークストーリーが、
自然と環境を自分を超越したものとして
意識する生き方が、
他人にアロハを広める事が、
ハワイの島々に暮らす人々の
生きがいにつながっていると
思ったのです。
だから、皆こんなに
ニコニコしているのかしらん。
隣人とのトークストーリ―において
ハワイの人々は
人と人との結びつきや
自然という人間以上のモノとの超越を
日常的に意識していると
感じます。
若い頃の私は
それに気が付くことができず、
のんびりと
自分の話をするローカルの人々を
半分呆れて眺めていたのです。
トークストーリーによって
自分の物語を
自分の声で語る事ができると
相手の物語にも心から耳を傾ける事が
出来るようになります。
そして、
人々同士の結びつきを
実感する事が出来ます。
何をやりたいか
何を貫徹したいか
という短絡的目的志向から、
何を与える事ができるか
どうやって人や自然とコネクトできるか
という風に
自然に変わっていきます。
それは、スミス先生が言う
自分以上の何かと繋がっているという
「超越」の何かをいつも感じる
機会があるという事です。
アメリカのネイティブのインディアン達も
ハワイの人と同じように
彼らのトークストーリーを残しています。
チェロキー族にこんな言い伝えがあるそうです。
生まれた時、君は泣き、世界が笑ったね。
だから、死ぬ時は
君は笑い、世界がなく人生を生きなさい。
フロリダに住む
ジェイソンさんの
母親ジョセフィーンさんが
亡くなった時、
息子に言い残した言葉がありました。
「皆にね、知らせてあげるんだよ。
誰でもね、一人一人、
人間は大切なんだよって」
ジョセフィーンさんは
誰にも親切な女性で、
生前、よく友人や
見知らぬ人も、
ハグをしているのを
息子のジェイソンさんは
見覚えていました。
長い介護が終わり、
お葬式も無事済んだ後
ジェイソンさんはある日
マイアミビーチに出かけました。
ちょっと勇気が必要でしたが、
「フリー・ハグ」という
手作り看板をもって
ビーチを行ったり来たり。
そのうち、一人、二人と
見知らぬ人が
息子経由、
ジョセフィーンママの
マザーハグを受けに来てくれました。
フリーハグ、
何もいらないよ。
ただ、アナタをハグしたいだけ。
ジェイソンさんは、
母が残したメッセージ、
「アナタも、貴方も
大切な人なんですよ」
という気持ちを、
一回一回のハグに込めました。
見も知らない人にも
愛しい人にも
心を込めたハグ。
お母さんの残した
ハグを通じた心の交流は
世界中に飛び火しました。
オーストラリアでは
別の青年ホワン・マンさんが
シドニーの繁華街で
フリーハグを
しているyouTube ビデオが
ネットを通じて有名になりました。
微笑みながら手を広げて、
恐る恐る
フリーハグをする青年に、
多くの人が
微笑みと喜びでハグを返したのです。
スケボーの少年が勢いをつけて
ハグに飛び込んでくる様子、
ハグをした後
お婆ちゃんが、
青年の顎髭をゆっくりなでる様子。
フリーハグを受けた少年たちが、
自分達も両手を広げて
ハグをし始める様子などは
ネットを通じて
多くの人の心を温めました
私にできる事は
微笑んで、
アナタを精いっぱい抱きしめる事。
それがたった数秒の事でも、
二度と会わないアナタでも、
大切な人だと
心に響かせる事。
何もいらないから、
心臓の鼓動と体温を
近づけるだけでいいから。
写真を撮る人、
たむろって笑い合う人、
フリーハグの周りで
列ができてしまって、
警官が路上で「フリーハグは禁止」。
それに反対した街の人々は
「フリーハグ禁止・反対」と
署名運動が始まるまでになりました。
Videoでは禁止した警官が
後で、やっぱり照れながらハグ。
台湾でも
日本でも
イタリアでも
イスラエルでも、
名もない普通の人々が
「フリー・ハグ」という
手書きの看板を持って
街角に立ちました。
有名になったvideoはこれです。
チャンスがあればご覧になってください。
https://www.youtube.com/watch?v=vr3x_RRJdd4
私にもかつて介護をすべきだった
二人の母がいました。
一人は日本の実母で、
千葉県の市川市で
日本画を描きながら、
70代まで一人暮らしをしていました。
もう一人は姑で
メリーランド州の川べりの
カレッジタウンにあった介護施設で、
大好きな野鳥を見ながら
余生を送りました。
日本の母は脳溢血で急死、
姑の方は
私たちの離婚後に亡くなったため、
どちらの母へも
最後、
介護やハグはおろか
看取ることもできませんでした。
心が残りました。
二人の母は
夫々お互いの言語を話さなかったので、
子供や孫たちを通じてしか
会話を交わす事が
出来ませんでした。
しかし二人とも
1930年代生まれ、
日本で言うと昭和一桁の同世代で
社交的な性格も似ていたため、
どうしてわかるのか、
身振り手振りで
一緒に台所に立って
笑い合っていた
光景が目に残っています。
国際結婚をした家族には
よくある風景なんでしょうか。
日本の母が
アメリカを訪ねてきた時、
戦争の頃の思い出話を
アメリカの母にした事がありました。
渋谷で育った
10歳の頃の少女時代を
「もう忘れてしまった」
と言いながらも、
話し始めました。
アメリカの母が促すと
疎開、
物資不足、
空襲、
防空壕などについて
思い出をぽつりぽつりと語りました。
私も小さい頃から聴いていた話でした。
防空頭巾にもんぺ姿の子供たちは
警戒警報が鳴ると、
学校から一目散に
家に走って帰った事。
運動会では軍歌で踊った事。
学校の空地に
サツマイモを植えて
食料の足しにした事。
田舎に縁故がなかったため
親と離れて集団疎開をした事。
アメリカと日本の二人の母は、
ワシントン郊外の小さな家の
庭に面したポーチに座って、
ワインを飲み始めた所でした。
アメリカの母は、
白く塗られた
藤のガーデンチェアに腰かけて、
異国の言葉で語られる
思い出話を聞いておりました。
日本の母は、
実家が焼夷弾で全焼し、
大好きな絵本も
お気に入りの文具も
人形も写真も
全て焼かれてしまった事を
話しました。
アイ、アム、10
母はつたない英語で言いながら、
十本の指を広げて見せました。
その様子は、本当に
10歳の女の子に見えました。
「もうずっと昔に終わった事」と
そっとため息をつくと、
アメリカの母も、
静かにうなづきました。
I was twelve
と、アメリカの母が言いました。
この話をお母さんに
説明してあげて頂戴と
自分の少女時代を話し始めました。
日本の母にとっては
始めて直接聞く
勝った国、強い国のアメリカの話です。
真珠湾が日本軍に攻撃を受けた時、
母は
遠くニューヨーク州ロングアイランドの
酪農農場に暮らしていました。
4人兄弟の末っ子で
猫とピアノが大好きな女の子でした。
戦時下になると、
食べ物、ガソリン、衣服が
配給制になりました。
お母さんたちは、
鍋や窯やアルミ缶などを
軍用のリサイクルするため、
スクラップ集めをしました。
歯磨き粉の入っている
アルミ製のチューブまで
スクラップに持って行った事。
おじさん達が
戦場に行ってしまってからは、
電機工場や鋳物工場で、
おばさんやお姉さん達が
働き始めた事。
自分で食べる野菜は自宅で作ろうと
「ビクトリー(戦勝)ガーデン」という
家庭菜園で
皆が食べ物を作っていた事。
子供でも
ダイム(10セント硬貨)を溜めて
ワ―ボンド(戦争債権)を
買う事が愛国者だと教えられた事。
ヨーロッパ戦線に
21歳だった長兄を送り出し、
19歳の次兄もが出願、
両親が息子たちの帰りを
待ちわびていた事。
二人の母のワイングラスは
いつしか
2杯目が半分になっていました。
縁あって一時でも家族になった
二人の母たちは、
少女時代それぞれの敵国に
暮らしていました。
政治と社会と大人たちが
勝手に戦っていた戦争でした。
母たちの話が終わった時、
アメリカの母が、
静かに立ち上がりました。
先ほどまで夕陽の残像があった
ポーチも、もう薄暗くなり
お互いの表情もやっと見える程に
なっていました。
姑はキャンドルに灯を
ともすと、
皆のグラスに
ワインをつぎ足しました。
そして、かつての敵国の少女に
近づくと、立ったまま
黙ってハグしました。
50年以上も前の思い出が
二人の昔の少女たちを
一つにしたようでした。
苦しみは苦しみ。
どこの国に生まれたか
どんな生い立ちであったかは
あまり大切な事ではない。
ハグされる事に慣れていない
日本の母は
目をパチクリさせていましたが、
ハグの意味が分かって
一生懸命うなづいていました。
私はこの二人のハグを見てから、
ハグが持っている力を改めて
思いました。
言葉でなく、
生い立ちでなく、
または、
仕事が何であれ、
信条が何であれ、
私たち自らが歩み寄る事、
手を広げる事ができれば
相手と繋がる事ができる。
言葉で表現しきらない事も
私たちにはハグがある。
二人の大切な母たちに
十分ハグも介護もする事が
出来なかった親不孝な私です。
でも、あの夕べ
陽の落ちたポーチの
ろうそくの光の中で
二人のかつての少女たちのハグを
見る事が出来た事は、
本当に幸せだと思うのです。
私にできるやり方で、
マザーハグを
人への癒しを
ジェイソン青年のように
少しでも広めたいと
思うのです。
「むかしむかし、
太古の昔、
神は最初の人間を
お作りになりました。
体に手足を付け、
頭に頭髪をのせ、
丈夫な皮膚で体を覆いました。
そして大きな美しい樹の下に
この最初の人間を住まわせました。」
インドネシアとオーストラリアのそば、
環太平洋の一部に属する
東チモールという
人口100万人強の
小さな島国に伝わる神話です。
「もう少しで完成という時、
神は人間のおなかを
コチョコチョとくすぐりました。
最初の人間は大笑いをして
素晴らしい笑顔ができました。
これで、完成です。
だからチモールに暮らす人々は
笑顔を忘れた事がないのです」
このお話は、
インドネシア軍事統制下で
東チモールが受けた苦しみを、
島の人達の視点から
「カンタ、チモール」
という映画にした監督の
広田奈津子さんが
してくださったお話です。
24年間に及ぶインドネシア軍事統制で
住民の3人に一人が殺害され、
民家の9割もが破壊された場所で、
何故東チモールの人々が
こぼれるような笑顔を
保っていられるのか。
その問いに広田さんが
住民から聴いた神話を
シェアしてくれたのです。
東チモール独立は2002年、
独立式典のコンサートで
広田さんが
聴いた一つの歌がありました。
言葉の意味も分からない、
素朴な、
でも、
心にしみるメロディーでした。
映画製作の経験も
バックグラウンドも
スポンサーもない日本女性が、
その歌と、
その歌をギターで奏でる一人の青年と、
チモールの子供たちの笑顔を
追っているうちに、
出来上がったドキュメンタリー映画です。
23歳だった広田さんが
チモールに通って8年かけて
コツコツと作り上げました。
広田さんは子供の頃
深く愛した森林の伐採に
強くショックを受けました。
しかし、大学生の時カナダで会った
先住民のお爺さんが、
「泣くことはないよ。
太平洋の周りに
大地を母とする家族がいるから、
会いに行きなさい」
と言ってくれたことで、
自分の使命を感じます。
会いに行こう、
その「家族」達に。
そして、カナダからハワイ
先住民たちの智慧を学ぶ旅。
アニミズム、
シャーマニズム
老人への尊敬、
自然との繋がり、
私たち日本人も昔は大切にしていた
昔からの智慧を
いたるところで学ぶ事ができました。
その歌い手の青年アレックス君は、
子供の頃
家族を虐殺されるという背景を
持った青年でした。
彼の仲間も、村の人達も
インドネシア兵の
暴力を、虐待を、拷問を
そこからの悲劇を
受けなかった人は
東チモールには1人もいません。
日本や米国、豪州はその間
東チモール沖の油田資源を確保するため、
国連での東チモールの
インドネシアからの独立決議に
反対票を投じています。
大国にとっては
インドネシアが統治をしていた方が
安価な石油に
アクセスしやすいからです。
インドネシアは
私たちの政府からの支援金で
東チモールの人々を
弾圧してきたことになります。
アメリカや日本で
安いガソリンを買っていた私も、
知らなかったこととはいえ、
搾取の恩恵に
どっぷりとあずかっていたわけです。
若い頃、
インドネシアのスラバヤという商業都市で
ひと夏を過ごした事がある私は、
インドネシアが
かつてはオランダやポルトガル、
時代が下って中国の華僑から
政治的、経済的、宗教的
抑圧を受けた事は聞きかじっていました。
しかし、
抑圧を受けたインドネシアが、
反対に、隣国の小国東チモールを
残虐に抑圧していたことについては、
この映画に出会うまで
ほとんど無知でした。
アレックス君のような青年たちは
ゲリラとなって
抑圧軍に抵抗します。
近代的な武器で武装した兵隊たちに
闇にかくれ、
ゲリラの抵抗は続きました。
インドネシア政府はあっという間に
抑圧できると思っていた
24年間も抵抗し続けた
東チモールに手を焼きます。
ゲリラ兵たちは
インドネシア兵を捕獲すると
拷問や暴力をふるうのではなく、
その数時間前に仲間を殺害した兵隊に、
食事を与え、寝場所を与え、
こんこんと言葉で説得し
最後には解放したのだそうです。
下級インドネシア兵もまた
貧村出身の青年たちであり、
麻薬によって攻撃性をあおられた
人々であった事を知っていたからです。
ゲリラ兵のキャンプに
近代兵器や爆弾は不足していても
変わらずあった物があります。
自分の故郷を守る強い郷土愛、
大地への尊敬と自然との繋がり
そしてアレックス君のような
歌声と笑顔でした。
解放されて戻っていった
インドネシア兵は
次第に東チモールへの同士感を
感じていきます。
自分達を苦しめた兵士たちと
食事を共有するゲリラ達。
歌や踊りを共有する村人達。
兵器ではなく、
心と忍耐と許しで「兄弟」達と
繋ぎ合った微笑みの東チモール人たち。
24年間の後、何万人もの犠牲の後、
インドネシアからも
東チモールを独立させよという
世論が強く上がります。
国連からの外圧もあってついに
東チモール共和国が設立します。
東チモールの苦しみは
長い植民地主義が残した
醜い傷跡でした。
独立を果たした東チモールとは言っても、
人々の悲しみは消えるわけがありません。
銃弾や刺し傷は何とか癒えても、
心の傷は消えないのです。
悲しい、
殺された8人の弟たち、
たぶん海に捨てられた兄弟たち、
骨のひとかけらも
弔ってやれない。
悲しい。
26年前から行方不明の夫を
まだ待っているのよ、私。
悲しい。
レイプされても子供たちがいるから
私は死ねなかった
悲しい。
息子が死刑になったというラジオのニュースを
この耳で聞いたんだ。
悲しい。
脚本もなく、演出もなく
やらせもなく、
とにかく巡り会った人々の悲しみと
同時に、こぼれるような笑顔と
歌とストーリーを撮り続けた
広田さんと相棒の小向定さん。
映画の中で村の道を
通りすがりのお爺さんが
杖を突きながら
広田さんに聴きます。
「お前さん、幾つだい?」
「25歳です」
「はああ、子供だな」
白顎髭のおじいさんは陽に焼けた
くしゃくしゃの笑顔で言います。
おじいさんも家族を失い、
家を焼かれた人でした。
孫とみられる子供たちがそばで
カメラを珍しそうに見て
笑っています。
おじいさんが広田さんに向かって言います。
怒りなどない、もう怒りなど。
日本、インドネシア、ティモール
みな同じなんだよ。
人類はひとつの兄弟なのさ。
父もひとり、母もひとり、
大地の子ども 憎んじゃだめさ、
叩いちゃだめ 戦争は過ちだ、
大地が怒るよ。
広田さんの心をわしづかみにした
アレックス君の歌も、
同じメッセージを歌にしていたのでした。
「ねぇ、みんな、ねぇ、大人たち。
僕らのあやまちを
大地は見ているよ」
広田さんはチモールの言葉について
教えてくれました。
ちょうどハワイの言葉のように
一つの言葉に
いろいろな意味がある言語
なのだそうです。
「チモールの言葉で
『あなた』は『私達』と同じなんです。
だから、例えば
『これが私達の家です』って見せてくれる時
『これがあなたの家です』に
なっちゃうわけです」
アレックス君は
「僕たちの過ちを大地は見ているよ」と
歌います。
それは
「アナタの過ち」という事なのです。
私の過ちは、また私達の過ちなのです。
無知であり、
自分の生活のみに目を向けて
大地の声を聴くことを忘れてしまった私達。
人々の苦しみや悲しみを
自分には関係ない事と
見ないふりをしている
「私自身」の過ちなのです。
大地はちゃんと見ているのです。
オーストラリア人のトムさんは、
交換学生として
アイスランドに行きました。
18歳の時のことです。
留学先、首都レイキャビクの高校の
演劇クラブで
1人の少女に出会います。
まだ16歳だったソルディスさん。
透き通る肌を持った
美しい少女でした。
トムさんとソルディスさんは
お互い強く惹かれ、
瞬く間に恋に落ちました。
若い二人は、
どこに行くのも一緒でした。
ソルディスさんは、
外国からきたハンサムな
優しい青年の恋人がいる事を
誇らしく感じました。
アイスランド語がまだまだ不自由な
トムさんを助け、
お返しにトムさんはソルディスさんに
英語の表現を教えてくれました。
好きな人がいる、
相手も自分の事を思ってくれる、
うきうきする毎日でした。
手をつないで旧市街を歩き回ったり、
お互いの友達を紹介したり、
家族も気に入ってくれました。
十代の甘酸っぱい恋が始まって
一か月ほどたった
クリスマスの夜の事です。
学校でダンスパーティがありました。
ソルディスさんはそこで初めて
ラム酒を飲みました。
年上のボーイフレンドと一緒で
安心できたし、
ちょっと大人になったような
大胆な気持ちも感じました。
始めてのアルコール、
ソルディスさんは学校の‘警備員が
救急車を呼ぼうかと言った程、
気分が悪くなり、吐き続けました。
でも、トムさんが一緒です。
僕が家まで送っていくよ、
力強く言う恋人に付き添われて
ソルディスさんは
自宅に無事帰る事が出来ました。
しかし、その後
二人に起こった事は、
起こってはいけない事でした。
それから後何年も
後悔と深い心の傷となって
二人の人生を変えてしまった
出来事でした。
「おかしな言い方かもしれませんが、
それがレイプだったと気づくまで
暫くかかりました」
大人になったソルディスさんは
ナイーブだった
16歳の自分を振り返ります。
レイプというのは、
誰か見知らぬ狂暴な悪漢が
銃器を持ち、
夜道を一人で歩く女性に
突然襲い掛かる、と
そういう事を言うのだと
映画やテレビから
思い込んでいたからでした。
ラム酒を飲み過ぎたとは言え、
ソルディスさんは、
クリスマスの夜に
信頼していたボーイフレンドに
連れて帰ってもらっただけです。
大好きなボーイフレンドが
まさかレイプ犯、
そんなことはあり得ません。
「見境なくラム酒を飲んでしまった
自分が悪いと、思いました。
吐き戻しをするほどお酒を飲んだなんて、
自分の責任です。
体はアルコールで
ぐったりとしたまま、
頭の中は真っ白にさえていました」
望まないのに
私が引き起こした事。
油断をしてしまった
浅はかで馬鹿な私のせい。
混乱と苦痛と悔恨と恐怖とで
16歳のソルディスさんは、
自分に起こっている事が
直ぐには
理解できなかったのです。
ソルディスさんは、
真っ白な意識を何かに
集中させようとしました。
あり得ない出来事から
自分の気持ちを少しでも遠くに
紛らわせてくれる事に。
大好きなボーイフレンドが
自分の体を蹂躙している
相手である事が
混乱をもっと深めました。
理解ができない事が起こっていると
私たちは、そこから心を
離してしまおうとするのでしょうか。
ソルディスさんが出来た事は
たった一つの事でした。
枕元の目覚し時計の秒針、
その音にひたすら自分の意識を
集中させる事。
カチカチ、カチカチ。
カチカチ、カチカチ。
2時間は7200秒なんだと
その時の記憶に残っています。
終わることなく続いた秒針音は
それから何年も
自分を責める言葉とともに
ソルディスさんの
頭の中で繰り返されました。
「自分のせい」
カチカチ。
「自分が引き起こした事」
カチカチ。
その夜以降、
二人が言葉を交わす事はありませんでした。
トムさんは留学を終えて帰国、
ソルディスさんは
アイスランドでの静かな学生生活を
続けました。
二人とも、
まるで何もなかったかのように。
この二人に起こったデイトレイプは
悲しい事に、世界中で
数限りなく起こっている出来事です。
私のクライアントさんの中にも
思い出したくない
誰にも言いたくない
記憶を持っている人がいます。
多くの場合、
デイトレイプを起こした加害者ではなく、
デイトレイプの被害者が
心にその罪の意識を負うという
特殊な暴力行為と言えます。
映画に出てくるような
いかにもありそうな「強姦魔」より、
ソルディスさんの例のように、
信頼している知り合いが
時に愛する相手が、
加害者である場合が、
数の上で何倍も多いのです。
ニューヨークとワシントンDCに
暮らしていた頃私も、
「レイプクライシスセンター」という支援団体の
電話カウンセラーをしたことが
あります。
多くの被害者の心の悩みを聞きました。
PTSDになっている方、
罪悪感に押しつぶされそうになっている方
何年たった後も悪夢が繰り返される方
家族に、子供たちに言えないで苦しむ方、
誰にも言えない出来事を
夜中にかかってくる電話で
泣きながら、振り絞るように
切々と訴える方が沢山いました。
実際のレイプに及ばなくても、
性的虐待、
セクハラ、
友人にも同僚にも家族にも言えず、
報復を恐れて孤立した被害者が
数多くいる事は
最近「#MeToo(私も)」運動が
世界的に爆発的に広がった事実を見ても
分かります。
#MeToo運動は、10年近く前、
恵まれない環境で生きるセクハラ被害者、
特に若い黒人の女性たちの為に
始められた運動だそうです。
最近メディアを騒がせた
#MeToo運動では、
何年も前に受けた性的虐待や暴力を
被害者達が
SNSなどで次々と名乗りを上げました。
どうせ信じてもらえないだろうと
長い間沈黙を守って来た被害者が
サイレンスブレーカー(沈黙を破る人々)と
呼ばれて、
セクハラ告発運動を展開しました。
アメリカでも、
映画界の敏腕大物、ハーヴェイ・ワインスタイン、
NBC放送の人気司会者、マット・ラウアー
コメディアンのビル・クロズビー、
少年への性的虐待を告発された
俳優のケヴィン・スペイシー
メトロポリタンオペラの
ジェームス・レバインなど、
映画や放送業界、政治家などを、
降板や解雇へと導きました。
****
あのクリスマスの夜から
9年後。
ソルディスさんは、
自分でも
予想しなかった事をしました。
忘れよう、蓋をしてしまおうと
努力し続けた記憶を、
心の苦しみを
ペンの先から文字につづり始めたのです。
それは、
トムさんに手紙を書く事でした。
あの時あった事を
逃げずに覚えている限り、
正直に。
ペンを通じて
書き留められる言葉の中に、
自分の心の平穏を求める気持ちが
あふれ出ました。
その手紙をトムさんに送る時
勿論躊躇しましたが、
彼を許すというより
今までの心の重荷を
下ろしてしまいたいという気持ちでした。
ソルディスさんは
パソコンの送信キイを押しました。
地球の反対側から
トムさんの返事が届きました。
加害者として罪を犯した人の
心からの悔恨の言葉でした。
だからと言って
起こってしまった事が
消え去るわけではありません。
その時点で二人にできた事は
起こったこと、
感じた事、
そこから影響を受けた事、
その後の人生を、
その全てを文字にして
表面に出してみる事でした。
お互いの言葉に
夫々が耳を傾けました。
憎しみも悲しみも
お互いの苦しみを
しっかりと心の耳で聴いたのです。
こうして始まったパソコン上の二人の対話は、
実に8年近くも続きました。
あのクリスマスの夜から16年後、
ソルディスさんは
二人の住む国の中間地点で
実際に会って話す事を
提案しました。
お互いそれぞれ結婚もし、職業もある
二人の大人として。
十代の頃の一夜の過失は
誰に責任があるのかを
二人が会って確認し合うべきと
ソルディスさんは考えました。
アイスランドと
オーストラリアとの中間地点、
南アフリカのケープタウンで
再会を果たした二人。
トムさんは、自分の犯した過ちと
正面から向き合うという
難しいチャレンジに挑戦しました。
自分はあくまで加害者であった事を
正面切って認める事は、
誰にとっても
勇気を必要とする事です。
ましてや、
自分がレイプの加害者である
という事。
ソルディスさんは、
罪の意識を持つべきなのは
自分ではなく、
望まない行為に一方的に及んだ
トムさんである事を
しっかり確認しました。
加害者―被害者というラベルから
過ちを犯しそれを認めること、
性暴力を女性の問題としか見ない見方を
改めるべき事なども認識し合いました。
性暴力の加害者側の心の在り方や
社会通念をもっと掘り下げて
それを若い世代にも広める事が
大切である事も
二人で確認し合いました。
この再会から、
ソルディスさんは二人に起こった事と
その後の軌跡を共著として
本にまとめる事を提案しました。
あの時誰かが言ってくれたら
という言葉を
本の中につづりました。
South of Forgiveness
(邦題:「7200秒からの解放―レイプと向き合った男女の真実」)
という本です。
デイトレイプという深刻な問題に
ユニークなやり方で癒しを探った
アイスランド人のソルディスさんと
オーストラリア人のトムさんの話を
私は、衝撃を持って聞きました。
レイプを起こした男性を含めて
こう呼ぶのは
語弊があるかもしれませんが、
勇気ある二人だと思いました。
そして、起こってしまった過ちを
認め合った後の
加害者と被害者という立場から、
二人は人間として、
もっと崇高な在り方に、
浮上昇華したようにさえ思いました。
その勇気は私に強く訴えかけました。
私たちは被害者でもあり、
加害者でもあり得る、と
そんな風に思いました。
それを認める事が
時にとても辛くても、
傷つけられると同時に
傷づける事もできるのが
私たちなのだと、知っておくこと。
深く認識しておくこと。
二人の話は人である事の辛いサガと、
しかし、そこから起き上がり
浮上する事ができる存在でもあるのだと
教えてくれているように思いました。
最後に
私が尊敬するベトナム仏教僧の
ティク・ナット・ハンの有名な
「私を本当の名前で呼んでください」
という詩をご紹介したいと思います。
ご存知の方も多いと思います。
私を本当の名前で呼んでください
私が明日には行ってしまうなんて言わないで、
何故なら、私ももう今すでにここに到着しているのだから。
深く見つめてごらん。
私はいつもここにいるんだよ。
春の小枝の芽になって
新しい巣でさえずりはじめた
まだ翼の生えそろわない小鳥
花のなかをうごめく青虫
そして石のなかに隠れた宝石となって
私は今でもここにいる
笑ったり泣いたり
恐れたり喜んだりするために
私の心臓の鼓動は
生きてあるすべてのものの
生と死を刻んでいる
私は川面で変身するかげろう
そして春になると
かげろうを食べにくる小鳥
私は透きとおった池で嬉しそうに泳ぐ蛙
そして静かに忍び寄り、蛙をひと飲みする草蛇
私はウガンダの骨と皮になった子ども
私の脚は細い竹のよう
そして私は武器商人、
ウガンダに死の武器を売りに行く
私は十二歳の少女
小さな舟の難民で
海賊に襲われて
海に身を投げた少女
そして私は海賊で
まだよく見ることも、愛することも知らぬ者
私はこの両腕に大いなる力を持つ権力者
そして私は、彼の「血の負債」を払うべく
強制収容所で静かに死んでいく者
私の喜びは春のよう
とても温かくて
生きとし生けるものの命を花開かせる
私の苦しみは涙の川のよう
溢れるように湧いては流れ
四つの海を満たしている
私を本当の名前で呼んでください
すべての叫びとすべての笑い声が
同時にこの耳に届くように
喜びと悲しみが
ひとつの姿でこの瞳に映るように
私を本当の名前で呼んでください
私が目覚め
心の扉のその奥の
慈悲の扉が開かれるように。
私たちの心は目に見えません。
でも、
私たちは誰でも
心が痛むという事を知っています。
大切な人を失った時、
裏切りを経験した時、
大きな失望に出会った時、
心が苦しい
心が病む
心が痛む
心が壊れてしまう、
そういった感覚は
頭だけではなく、
体の細胞の一つ一つと
「私」という自我全体が
同時に感じるように思います。
精神、神経、メンタル、心療と
いろいろ名前がついていますが、
見えない心が、頭や体に
とても強い影響を与える事も
私たちは経験から知っています。
心が体に影響する事を
そして、言葉が心に届く時
心と体が一つになる事を、
身を持って体験したある一人の女性の
お話をしたいと思います。
このアメリカ人女性、クリスティンさんは
まだ大学生の時、
不思議な発作にみまわれました。
始めは言葉がもつれて
頭がボーっとするという経験から始まりました。
足がふらついて
ちょっと変という症状も出ました。
うまく立てない、
うまくバランスや姿勢が保てない
立ち上がっても、
足がふらふらして
座りこんでしまいます。
ストレスだろうという医者。
栄養や睡眠の改善をアドバイスする医者。
いろいろな専門家が
あらゆる検査をしても
体そのものに異常はないというのが
結論でした。
そのうち、麻痺や痙攣が悪化し、
一日に何度も地面にばったりと
倒れてしまうようになり、
外出時にはヘルメットを
かぶらなければ、
危なくて学校にも
行けなくなってしまいました。
やがて、うまく声が出せない
話していても
自分の声のような気がしない、
集中力も散漫になり、
次第に
何もしないのに体の左側だけが
ひきつけを起こすようになりました。
原因がわからないばかりか
不思議な症状も
なかなかよくなりません。
骨筋力をつかさどる
随意運動機能が、
自分でコントロールできるはずなのに、
異常をきたしてしまったのです。
有名な専門病院で診てもらった所、
クリスティンさんの体は
「転換障害」という病気である事が
分かりました。
体は問題がないのに、
心の病が体に影響を与える病気です。
心のストレスが転換されて、
体に出るという事で付いた名前だそうです。
病気の名前が分かっても
症状が緩和するわけではありません。
大学の授業にも
満足に出席できなくなった
クリスティンさんは、
ついに大学を中退。
引きこもりの為
自殺未遂までしようと考えます。
実はクリスティンさんは、
この病気が発病する数年前
大の仲良しだった一歳違いの
お姉さんを、交通事故で亡くす
という悲劇を経験していました。
酔っ払い運転による事故で
お姉さんのベサニーさんは
ある日突然
若い命を絶たれたのです。
事故のあったその晩、
寝ていたクリスティンさんを
起こしたお父さんが、悲痛な声で
「ベサニーはダメだった」
と一言だけ、伝えました。
青天の霹靂そのものでした。
たったこれだけの言葉は
クリスティンさんの心を
奈落に突き落とすのに
十分だったのです。
しかし、急死したお姉さんのことを
クリスティンさんは
忘れようと努力しました。
忘れようとすればするほど
事故の事、
お姉さんが感じたであろう苦痛が
クリスティンさんを
自分の事のように苦しめました。
お姉さんのベサニーさんの葬式も済み、
大学に入って普通の生活を
取り戻したように見えた数年後に
クリスティンさんは
この病気を発病しました。
クリスティンさんの心は、
壊れてしまっていた事を
認める事ができずにいたので、
体が心に代わって
クリスティンさんの
心の苦しみを
表面化させようとしたようです。
転換障害とは
心的外傷後ストレス障害(PTSD)と
併発する病だそうです。
人間の心はショックを受けると
脳がシグナルを出して
呼吸を早めたり
発汗を促したり
心拍数を早めたりします。
ショックのレベルがもっと高いと、
一時期
目が見えなくなる、
声が出ない、
耳が聞こえないなどの
極端な体の反応を起こす場合もあります。
クリスティンさんは
体の病気が出て始めて
心がどんな体験をしたかを見つめる事が
できるようになりました。
お姉さんの死のその夜の苦痛を
家族や自分が感じた苦痛を
全て自分の心の苦しみとして
無意識に深く体験してきていたのです。
つまり、頭で終わった事と納得していても
心は、または潜在意識と言い換えてもいいと思いますが、
納得していませんでした。
心はその事故時の苦しみを
何度も何度も繰り返し感じていたのです。
ちょうど、壊れてしまった
おもちゃのお猿さんように
同じ所をぐるぐると回っていたのでした。
クリスティンさんは
杖や車いすの生活は一生続くだろうと
覚悟をしますが、
ある日お父さんに連れられて
ある催眠療法の先生の元を訪ねます。
ダメで元々と思ったのです。
ジョン・コネリー先生という
名前の療法師の先生でした。
コネリー先生はトラウマからの回復を
専門にしている催眠療法師です。
催眠療法は、たった一回の施術でも
深い意識に到達する事ができると、
回復が可能になる事があり得ます。
それは一見不思議なミラクルに思えるのですが、
脳と体と心が一致する事で
十分あり得る事なのです。
心に言葉が届くと
心にうごかされていた体は
言う事を聞いてくれるのです。
そこでクリスティンさんは
コネリー先生から
心に届く言葉を受け取りました。
「お姉さんの苦しみはね、
もう存在しないんだよ」
お姉さんはこの世には存在しない。
心えぐられるような悲しい事実です。
しかし、残されたクリスティンさんの心が
納得しなくてはいけなかった事は、
事故による苦しみも、また
もう存在しない、という事でした。
頭でわかっていても、
この事実を心が受け入れていなかったため、
体と心が、ショックを受けた時と同じ反応を
何度も何度も、繰り返していたのです。
催眠療法は、心に届く言葉を
頭ではなく、
心に一直線に届かせる事が
できる方法の一つです。
苦しみはもう終わった。
もう存在していない、
この言葉が心に響いた時
クリスティンさんの痙攣が収まりました。
麻痺していた手足も
ぼやけていた視力も
回らずにいた呂律も
戻ってきました。
まるで頭の上にかかっていた真っ黒な雨雲が
サーと吹いてきた風に
一気に吹きさらわれたような感覚でした。
クリスティンさんは
コネリー先生の診察室をでて
お父さんの待つ待合室に歩き始めました。
車いすで運ばれた娘が
ドアを開けて歩いて出てきたのです。
「お父さん、私はもう大丈夫」
クリスティンさんの爽やかな目が
そう語っていました。
しっかりと立ち上がって
クリスティンさんはお父さんを見つめました。
ベサニーさんの急死に次いで
下の娘も失いかけていたお父さんは、
待合室でむせび泣いたそうです。
しかしそれは
感謝と希望の涙でした。
娘の心が必ず強く戻ってくるはずと
信ていたお父さんの涙でした。
勿論、
クリスティンさんの体験したような
ミラクルが催眠療法で全て起こるとは
限りません。
心に届く言葉と
その言葉を受け取る心が
そしてその心の声に呼応する体の
微妙な一致が必要です。
しかし、
人間が人間の心の強さを信じる時、
心が大きく開いて
智慧のある言葉を
受け入れる事ができる時、
そんなミラクルも十分あり得るということは
素敵な事だなあと思うのです。
ニューヨーク暮らしだった30代の始め頃、
リテラシー・アメリカという団体で
仕事をした事がありました。
ニューヨーク市の
文盲の人達に
文字を教えるという
ボランティアのお仕事です。
マンハッタンの西側、
モーニングハイツという高台の
小さなアパートに
暮らしていた私は、
モーニングサイドパークの中の
石の階段を
ラニングシューズで駆け下りて、
西120丁目と
フレデリック・ダグラス通り
の間にあった小学校の教室に
毎週2回通いました。
公園の階段を
一目散で駆け下りたのは
その頃80年代後半、
ハーレム付近は
まだ無法地帯とみなされ、
麻薬の売買やホームレス、
いかがわしくも
怪しげな人々が徘徊し
危険な場所と
考えられていたからです。
爆竹だと思った
パンパンという大きな音が
銃弾の音だったなどという事も
日常茶飯事。
外出時は必ず
20ドル札を数枚
ポケットに入れて行けと
先輩から教えられました。
万が一、追いはぎに遭遇しても
お札を遠くにばらまいて
そのスキに
すたこらサッサができる、
ヒールは履くな、
走りやすいスニーカーを履けなどなど、
ニューヨーク暮らしの
処世術でした。
火曜日と木曜日の午後3時過ぎ、
子供たちが帰宅した後の教室に
三々五々
文字を習う人、
簡単な文章の読み方を習う人
などが集まりました。
教える先生がたは
大抵近くの大学生や大学院生で、
文字を習う人より
一回りも二回りも
若い先生はザラでした。
英語がネイティブでない私が
アメリカ人に
ABCを教えるというのは
何とも不思議な体験です。
文字が読めないという事が
こんなにハンディであるのだと
始めて知りました。
先進国のアメリカで
貧困層に非識字者が多いのです。
文字が読めない両親の子供たちも
学校をドロップアウトする率が高い、
文盲の人は
福祉を受ける率も高いのだ
と知りました。
また少し文字が読めても
小学校程度の読解力しかないと
選挙に投票する事はおろか、
収入を得る事や
社会生活をしていく事が
どんなに難しいかという事も
学びました。
生徒には
小学校を出ただけという人、
十代からホームレスで
学校に行く機会がなかった人、
カリブ海などの外国からの移民など
いろいろな人がいました。
大人になっても
文字が読めない人達が
こんなに多くいると知る事は
驚く体験でした。
文字が読めなければ
福祉や就職の申し込み用紙も
書けません。
年配の文盲者になると
「眼鏡を忘れた」
などと言い訳をして
近くにいる人に
用紙の書き込みを
してもらったりするのだそうです。
トレインと呼んでいた
ニューヨークの地下鉄の駅名も、
文字が読めない人は
駅構内のタイルの色や
壁の模様で駅の名前を
覚えたりするのだと
習いました。
駅の名前が読めないから、
幾つ目の停車駅かを
いつも注意して
覚えておかなければなりません。
ボランティアとしての
数週間の集中トレーニングを
受け終わり、
私が教える事になった
最初の生徒さんは
50代も後半の
ジャマイカからの移民の
トーマスさんでした。
アメリカに来て
40年近くたち
話す英語はネイティブでありながら、
英語の読み書きが
ほとんどできないのです。
トーマスさんは
あまりものを言わない
静かな初老の人で、
背が高いのを
申し訳なさそうに
猫背にして座っている人でした。
トーマスさんと私は
小学生が座る
オレンジ色や緑色の
汚れて古い小さな椅子に腰かけて、
識字専門に作られた
テキストで文字を勉強しました。
現在文盲率はゼロに近い
日本人の私達は、
文字が読めない大人がいる
という事について
あまり考えたことがありません。
文字は読めて当たり前という
常識を持っています。
しかし、日本も明治初期まで
男子の40%-50%、
女子の60%-70%が
完全文盲、または不完全文盲者だった
歴史的事実があるのだそうです。
先進国のアメリカでは
発展途上国や
戦争で苦しんだ国からきた
文字が読めない移民が沢山います。
その頃ニューヨークでも
150万人近くの人が
隠れ文盲と聞きました。
トーマスさんは
こうした移民の1人でした。
長年不可解な文字に囲まれて
暮らして来た人達は、
子供でも分かるはずのABCが
読めない事に、
深い恥の気持ちを持っています。
文字を読む私たちにとっての
不可解なシンボル、
ちょうど「%*&$#@」
という感じで見えるらしいのです。
成人が文字を習う場合は、
A-B-Cと順番に習うのではなく、
MやNやVやWから習います。
Mには山が二つ
Nには山は一つだけ
山頂からは谷まで急降下、
Mは谷が真ん中で。
Vは谷が一つ
Wは谷が二つある
という風に。
一文字一文字の
形を覚えてから、
一単音の言葉を
読むことに挑戦します。
例えば、
CAT-PAT- CAT-PAT
MAT-VAT- MAT-VAT
ごろがいい形と音とを、
覚えやすい文字でできた言葉を
何度も何度も繰り返して覚えます。
CAN-PAN- CAN-PAN
MAN-VAN-MAN-VAN
歌のように拍子を付けて
二人で唱えたり、
私が「MAP」と言った後に
Nを指さして、
トーマスさんが今度は
「NAP」と言い換える。
それから挿絵を指さす。
Map-Nap-Map-Nap
MAP(地図)
NAP(昼寝)
地図が昼寝をしている挿絵が
描かれているテキスト。
Vet-Wet-Vet-Wet
VET(獣医さん)
WET(オネショ、または濡れる)
獣医さんが水たまりで転んで
ずぶ濡れの挿絵。
今週覚えた文字や言葉も
次の週に行くと
忘れてしまう事もしばしばでした。
そういう時、
トーマスさんは
申し訳なさそうに
「山が一つは、Mだったかね、
Nだったかね」と聞くのです。
ジャマイカなまりがあっても
英語を話すのは
ネイティブのトーマスさんは
話す事は、私の何倍も上手でした。
私の発音がおかしいと
発音を直してくれながら、
私とトーマスさんは
CAT-PAT-MAT-VAT
CAN-PAN-MAN-VAN
そんな言葉を繰り返しながら、
だんだんと
お互いの話もするようになりました。
日本からの留学生の私は、
大学院で英語の論文などを読むのが
実はとっても辛い事、
先生やクラスメイト達が言っている事が
時々、あまりよくわからない事
などを話しました。
文字が読めても
外国から来た人間には
英語はやはりチャレンジです。
一方、
話す事に問題がなくても
読む書くという基本的な事を
通り越して生きてきた
トーマスさんは、
私の話を
うんうんとうなづきながら、
真剣に聞いてくれました。
そして、
トーマスさんも
自分の話を少しずつ
してくれるようになりました。
小さい頃から家が貧しく
ジャマイカでも学校へ
行く機会がなかった事。
小さい頃は、
農地の手伝い、
農村近くの自転車の修理工場で
働かせてもらっていた事。
ハンドルに
手が届くようになってからは
農場のトラックを
運転させてもらって、
とってもエクサイティングだった事。
ジャマイカの海や山の景色が
とても懐かしい事。
長男だったトーマスさんは、
家計を助け、
稼いだお金は兄弟や母親の
食費にあてた事。
十代になると、
ブロンクスにいた遠い親戚を頼って
ニューヨークに来た事なども
話してくれました。
アメリカに来てからは
小学校のジャニターになった事。
ニューヨークを出たのは
ある夏ニュージャージーの
海に行ったことがあるだけ。
家具屋に弟子入りして、
長椅子やカウチなど
古い家具の張替え技術を習った事。
ジャマイカは
英語を話す島国なので、
話し言葉に
不自由はありませんでしたが、
トーマスさんは
何しろABCが読めないのです。
新聞はおろか、
街の標識も読めない、
福祉申請の書類も読めない、
自分の名前も「絵」のように
覚えてはいますので
なんとかサインはできるのですが、
活字体になると
書けないし読めません。
トーマスさんは
やがて結婚し、
ジャマイカ系アメリカ人の奥さんとの間に
お子さんも二人いました。
奥さんも息子さんたちも
普通に文字を読むことができます。
それはトーマスさんの誇りです。
息子は一人は海軍に入隊し、
もう一人は
病院で採血係になっています。
文盲である事を
長い間
恥に思ってきたトーマスさん。
いつかは自分で
家具張替えビジネスを
始めたい事を話してくれました。
奥さんは
トーマスさんが文字が読めるように
いつもサポートを
してくれているそうです。
「読めない事は恥じゃない」と
奥さんはいつも言います。
「読めない事を隠す事や
読む努力をしない事が恥よ」
そんな奥さんの言葉に
励まされて、
トーマスさんは
自分が清掃員として働く
小学校の一角で
文字を習い始める事にしたのです。
ABCも、あいうえおも
漢字も読み書きできる私は、
もう初老になっている
トーマスさんの
一文字一文字をたどる姿を見て、
反対に
どんなに励まされた事でしょう。
そして、外国まで来ることができて、
英語の勉強ができる事の
ありがたさを
どんなに感じたことでしょう。
論文がうまく書けない時、
第二外国語の英語の発表が
全然さえない時、
私はトーマスさんの事を
思い出しました。
挑戦を怖れずに
たゆまぬ努力を続け
諦めず、焦らず、
トーマスさんは
あのオレンジ色のちいさな椅子に
座りに来るのです。
そして、鼻の上に少しずらした
老眼鏡の向こうから
申し訳なさそうに笑って、
トーマスさんが言った言葉を
今でも思い出します。
山が一つは
Mだったかね、Nだったかね。
谷が真ん中にある方がMだったかな」
マンハッタンのハーレムの
学校の片隅で、
小さな山と谷を指で辿っていた
トーマスさんの姿です。
ラリーという名前の
白い美しい盲導犬を連れたその人は
スポ―ツで鍛えた体で背が高く、
穏やかな表情の男性でした。
目が見えない事を憶する事なく
明るい微笑みを浮かべた
この男性、マーク・ポーラックさんは、
「僕にダンスを教えて欲しい」
と頼みました。
サルサダンスの先生はシモーヌさん。
アイルランド女性によくある
透き通るような象牙色の肌に
肩までの黒い髪、
緑がかった碧眼の
細身でチャーミングな女性です。
マークさんとシモーヌさんは
サルサのステップを踏みながら
お互い魅力的な相手であると感じ、
一緒に過ごせる時間が
何より楽しい時間
である事に気が付きます。
二人は、
数回のダンスレッスンの後、
こんなに話が通じる相手がいた事に驚き、
お互い離れられない存在である事を
強く感じるようになりました。
マークさんが肉眼で
美しいシモーヌさんを
見る事ができないのは
二人の恋を
阻む障害ではありませんでした。
マークさんは生まれながらの
盲目ではありませんでした。
5歳の時、
網膜剥離で右目の視力を失ったのです。
8歳、15歳、17歳と
それから何度も目の手術を受けました。
スポーツが大好きだったマークさんは
もう一方の視力を失う事を怖れて、
大学では危ないスポーツを避け、
片目とはいえ、
漕艇のチャンピオンとなりました。
体力と運動神経と冒険心に
恵まれた青年でした。
でも、22歳の時、
心配していたことが起こりました。
左目の網膜も剥離してしまい、
完全な視覚障碍者となったのです。
しかし、
盲目というハンディを負いながら、
マークさんは生まれながらの
冒険家の精神を少しも失う事は
ありませんでした。
勿論始めは失ったものを悼んで、
泣き崩れる日が続きました。
普通の人ならめげるであろう状況で
マークさんは
ニーチェの言葉を思い出しました。
ナチスドイツの収容所で希望を捨てなかった
ヴィクトール・フランクル博士が
その著書「夜と霧」の中で
引用していた言葉でした。
「何の為に生きるのかを知っている者は、
(生きるための)ほとんど全ての方法を
考え出す事ができる」
マークさんはそれから
世界でも危険度のトップの一つとされる
ゴビ砂漠250キロマラソン
「ゴビ・マーチ」に挑戦し、
盲目のランナーとして
2003年、
始めて完走という快挙を果たします。
極寒と灼熱の温度差の砂漠地帯を
目の見えるパートナーと
紐でつながって
一緒に7日間で走り抜くという
ウルトラマラソンです。
それだけでなく、
盲目になってから6年目には
北極でのマラソン、
更に10年目に
南極の氷点下マイナス50度という環境での
マラソンさえクリアします。
視覚障害というハンディがある事が
返って、
マークさんを人一倍、
危険を恐れない
冒険心のある努力家にしたのです。
南極から戻ったマークさんは、
ダンスを通じて愛を確かめ合った
シモーヌさんにプロポーズします。
シモーヌさんの
長いまつげの緑の目は
歓びの大きな涙で濡れていました。
目の見えないマークさんにも
それがよく伝わりました。
結婚式を数週間後に控えたある日、
マークさんは
アイルランドのダブリンにある
友人宅を訪ねていました。
久しぶりの祖国、
世界の危険な場所での挑戦を
次々とクリアしたマークさんにとって
都会の静かな安らぎの数日でした。
夜中にトイレに起きたマークさんは
在ろうことか、
たまたま開いていた2階の窓から
直下のコンクリに落下してしまったのです。
都会のなかの安全な場所で
あってはならない事故でした。
医者は命の保証はできないといい、
生死の境をさまよう数日でした。
イギリスにいたシモーヌさんは
飛行機に飛び乗って
病室に直行します。
幸い命は取り留めたものの
この事故で、
脳内出血、頭蓋損傷、脊髄損傷、
世界を股に掛けた
盲目のウルトラマラソンランナーは
下半身不随、
恢復の見込みゼロ、
という厳しい宣告を受けます。
「目の見えない僕と結婚して
欲しいとはプロポーズしたけど、
盲目で下半身不随の僕でも
一緒にいて欲しいとは
言えない。
どうか、僕をここに置いて
遠くに行って欲しい」
意識が戻ったマークさんから出た
身を切るような心の声でした。
愛する相手であるからこそ、
この状態の生活を
相手に強いる事はできない、
マークさんは自分のことではなく、
シモーヌさんの幸せを
第一に考えたのです。
シモーヌさんは
見えない目から滂沱の涙を流す
マークさんを
赤ん坊のように抱きしめて
言いました。
「今はダメよ。
今は貴方と貴方の脊髄が
私を必要としているの。
こんな状態での別れ話は受け付けません。
もう少し状態が落ち着いたら
また話しましょう」
シモーヌさんは
その日から一日たりとも
マークさんの病床を離れたことは
ありません。
食事も病院のものではなく
手作りで栄養を考えたもの。
介護も他人に頼らず
全て自分でこなしました。
下半身不随というのは
足腰を動かせなくなるだけでなく、
神経の痛み、
痙攣、
内臓の感染症などが多発し、
心の苦しみで精神も阻まれます。
車いす生活の脊髄損傷患者たちは
一般に寿命も短くなってしまう
という報告もあります。
あれから8年。
二人は文字通り二人三脚の生活を
続けています。
あれだけの冒険をこなした
マークさんの傍には
今度は、シモーヌさんがしっかりと
寄り添っています。
南極や北極やゴビ砂漠ではないけれど、
二人は一緒に
新しい冒険と開拓の場所を見つけたのです。
それは脊髄損傷患者に
電気刺激を与える事で
筋肉運動を起こさせるという
科学と人間工学の最先端の
ライフサイエンスの分野です。
アメリカの外骨型ロボット(exoskelton)
と呼ばれる新技術で
全く感覚も運動能力もなかった
マークさんの徒歩が可能になりつつあるのです。
今はまだ、
あくまでロボットに動かしてもらう
という段階の技術です。
でも南極を自力で走った冒険家は
ロボットに歩かせてもらっているのでは
物足りません。
いつの日か自分で歩いて見せる。
視力の喪失を受け入れ、
下半身不随を受け入れ
車いす生活を受け入れた、
マークさんですが、
冒険とチャレンジの心はそのままです。
そして、その傍に
今度はシモーヌさんがいます。
二人はいつの日か、
ダンスを踊る夢を持っているのです。
それはただの希望や
根拠のない楽観ではありません。
不可能と言われ
不可能と考えられていた
多くの事が、
不可能を鵜呑みにしなかった
科学者たちによって、
科学を信じる
勇気ある人たちによって
一つ一つ
可能になって来たのです。
素人なりにリサーチを続け、
苦しくても一歩一歩の訓練を続け、
現実を受け入れつつも
かつ希望をも持ち続けるという
本当の意味の冒険家の持つ
勇気ある夢です。
「怒涛の川の中に飛び込む必要があるのです」
盲目の恋人に
ダンスを指導した美しい
シモーヌさんは言います。
「怖いし、
無理だと思うし、
できないと思うけど、
飛び込むのです。
そうすると、
次の場所に行けるのです。
私達は自分達の努力が、
私たちだけでなく、
6000万人の車いすの人たちに、
そして、
きっと次の世代の人達への
希望となると思っています。
下半身不随の人達が
車椅子がいらなくなること、
きちんと現実を見極めた楽観性を
持ち続ける事
私達と一緒に
科学と希望とのダンスを踊る事。
それが私達の
ラブストーリーです。
ハワイ大学近くの
ホノルルの山側に、
セントルイスハイツと呼ばれる
丘陵があります。
丘陵の麓近くには
カトリック教会系の
小さな私立男子校が、
ダイヤモンドヘッドを
一望に見渡して建っています。
隣接の同系の私立大学と並立し
ハワイには珍しいヨーロッパの伝統の
赤い屋根と白い壁の
チャーミングなキャンパスです。
ワシントン州からやって来た
チャック先生が
このセントルイス校で
一教師として教え始めたのは
1970年代のことでした。
元々言語に優れ、
外国語を勉強するのが大好きだった
若きチャック先生は、
大学ではロマンス言語を専攻し、
フランス語、スペイン語
後に、ロシア語、日本語まで
教えたそうです。
いつもネクタイをするか
ハワイの正装のアロハシャツを着て、
礼儀正しく生徒たちと接していた
チャック先生は
古き良き時代の教育者でした。
毎朝、坂道をゆっくりと上って
教室まで行く途中、
フィリピン系、
中国系、
白人、
ポルトガル系とハワイらしく
人種が混じった少年たちの
登校とよく一緒になりました。
先生は少年たちに一人一人
「グッドモーニング、ミスターXX」
と話しかけました。
眠い盛りの生徒が
廊下で転寝をしていると
自分の教室に招き入れ、
他の少年たちと交流を促しました。
先生は、
多感な世代の少年たちに
広い世界へのチケットである
外国語への関心を持ってもらう事を
教育の使命としていました。
美しいハワイに
生まれ育った少年たちでしたが、
もっと広い世界を見るように
多言語を話す人々の文化を学ぶようにと
根気よく教え続けました。
チャック先生はこうした教師生活を
パーキンソン病が悪化して
引退が余儀なくなるまで
47年も続けたそうです。
卒業生は、
ハワイや他州の大学に進学し、
政治やビジネスや教育の
リーダーとなっていきました。
私がチャック先生にお会いしたのは
シニアの方の為のコミュニティの
椅子ヨガのクラスででした。
お会いした時はすでに
セントルイス校は退官され
パーキンソン病と闘いながらも
健康維持のために
介護士の方と
ヨガや散歩をする生活でした。
日中は、欠かさず、
ニュースで時事問題を見ていました。
ご近所という事もあって、
時々多めにできた日本食を
差し入れる事もありました。
ノックをすると
ゆっくりとドアが開き、
「よく来てくれた」といつも
満面の笑みをたたえて
迎えてくれるチャック先生でした。
おっそ分けの入れ物を受け取って、
礼儀正しくお礼を言うと、
チャック先生は必ず
一言二言、品のよいジョークを
おっしゃるので、
私はすぐチャック先生の
ファンになってしまいました。
椅子ヨガの間も
不自由な体でも
一生懸命手足を伸ばそうとして
努力を怠りません。
そして、
クラスを笑わせるジョークを
これまた品よく、一言二言言うのです。
クラスメートたちもクラスを教える私も
チャック先生から
元気を沢山もらい続けました。
チャック先生は一度も結婚せず、
自分の子供をもうける事はなかったと
聞きました。
先生にとっては50年近く教えた
何千人の少年たちが子供だったのです。
退官近くの時期には
日本や韓国からの留学生に
英語を教える事もして
外国人学生が
ハワイの生活に慣れる事ができるように
したそうです。
根っからの教育者でした。
昨日は76歳で永眠された
チャック先生のご葬儀で、
私も末席に参列させていただきました。
セントルイス校内のカトリック教会の中は
ハワイの花と歌と、
ハワイのチャントと、
色とりどりのアロハシャツを着た
教え子たちと家族で溢れていました。
まだ20代30代の青年たちもいれば、
孫がいる50代60代の卒業生もいました。
皆チャック先生の教え子たちです。
葬儀の場で、チャック先生が
ハナイと呼ばれるハワイの制度で
6人の少年たちを「養子」にした事を
知りました。
少年たちは先生から経済的援助を得て、
高い私立校の学費を賄い、
大学に進学できたのだそうです。
彼らはチャック先生を
「パパチャック」
「グランパチャック」
「シニアバセット(チャック先生の苗字)」
「ミスターB」などと呼んでいました。
神父様たちが祈りをささげ
讃美歌が歌われ
献花が終わった後に
1人の老女が壇上に立ちました。
フィリピン系と思われる
肌の色が赤銅色の方でした。
その女性はマイクに向かって
「私はこんな席で
話をしたことはないんだけれど」
と前置きして話し始めました。
「でも、私には言うべき事があります。
それはチャック先生の事です」
かすれた声の老女は
椅子席に座っている中年の男性を
指さして言いました。
「あれは、私の長男のデリックです。
チャック先生の教え子です。
そして、チャック先生の
ハナイの息子です。」
その中年の男性は
奥様とみられる女性と
十代の子供たち二人と寄り添って
子供たちの祖母である老女の話を
頭を垂れて聞いていました。
「私の家族はもともと
カウアイ島に住んでいる農家で
普通なら都会の私立学校に息子を
やれるような家庭ではありません。
でも、私は教育を受けさせなければ
息子の一生のうだつは上がらないと
思いました。
フィリピンからの移民の暮らしは
楽ではなかったけれど
借金をして、カトリックの学校の
セントルイス高校にいれたのです。
この学校の卒業生は良い仕事に就けると
教会で聞いたからです。
学費は何とか出せましたが、
私立の学校は他にもお金がかかります。
息子のデリックは、
ホームシックになっても
飛行機に乗ってカウアイ島に帰る余裕など
ありませんでした。」
十代の田舎の少年が
家を離れて都会暮らし、
どんなに心細かったことでしょうか。
チャック先生は、
このお母さんの息子のデリック君の
学費をサポートしたばかりか、
長い週末になると
カウアイ島の自宅に帰れるように
飛行機代を出してくれたというのです。
それも一回二回ではなく
在学中、毎回だったそうです。
これで少し余裕ができたデリック君の
お母さんは、
次男もセントルイス校に入学させることが
できました。
それはデリック君の隣に座って
同じように首を垂れて聞いていた
もう少し背の高いやはり中年になった
男性の事でした。
「あれが、次男と次男の家族です。
長男も次男も
二人ともちゃんと仕事について
家族を持ってやってます。
チャック先生のおかげです」
小さな老婆はプライドと感謝で
胸がいっぱいになったのか、
マイクの前で
泣き伏してしまいました。
二人の息子さんも
目頭を押さえています。
チャック先生の高校教師の給料で
こんなことが
簡単にできたわけではありません。
先生は、教える仕事が終わると
ワイキキの宝石屋さんにアルバイトに行って、
そのお金を密かに生徒たち、
ハナイの息子たちの
学費や経費に充てていたのです。
カウアイ島の老女の話が終わると
もう一人の年配女性が
マイクの前に立ちました。
白いレースのトップスの
おしゃれな感じの
キャリアのある方に見えました。
「ユー、ボーイズ!」
その女性は皆を見渡しながら
落ち着いた声で話し始めました。
「皆さんは、
私の事は知らないでしょう。
でも、私は皆さんの事を知っています」
この人も先生かなと思って聞いていると
チャック先生の写真の方を見て、
「もう話してもいいわよね」
と、まるで二人だけで
会話をしているように言うのです。
「私は長年この学校で
事務員をしていました。
だから、
どの生徒の事もよく知っています。
チャックは何度も生徒たちを
海外研修に引率しました。
いくらセントルイス校とは言っても、
息子を海外に旅行させるのは
親御さんも経済負担が大変です。
行きたくても
いけない生徒は沢山いました。
生徒が8人集まると先生の旅行代は
無料になりました。
16人集まると引率の先生には
引率代がただになるだけでなく、
報酬も出ました。
勿論もっと集まれば報酬が増えます。
チャックの引率するグループはいつも
満席状態でした。
でも、
チャック先生は
一度も報酬を受け取った事は
ありませんでした。
報酬があれば、その分一人でも
多くの生徒の
旅行代に振り当てたのです。
それを知っていたのは
事務をしていた私だけです。
先生は誰にもこのことを言った事は
ないはずです」
チャック先生は
6人のハナイ息子たち
11人のハナイ孫たち
何百人もの教え子や
ファンに囲まれて、
写真の中で静かに微笑んでいました。
「まあそう大仰に言う必要はないよ、君」
チャック先生は
そう言っているように見えました。
そして、
今にも品の良いジョークを
いいたげな表情で
「大好きな事ができた
人生だったな。
若い人達が良い人生に
旅立つ手伝いができた。
ありがたい人生だったよ」
そんな風にも言っている気がしました。
今から10年前、
そろそろ年末の
ホリディシーズンが
始まる季節でした。
幸(ゆき)さんは白血病という診断を受けました。
白血病は、
昔から不治の病
と言われていた病気です。
血液の癌と呼ばれる白血病は
罹ったら完治は難しい、
その位は知っていました。
でも、
それまで医者に行った事すらない
健康人間だった幸さんにとって、
自分がまさかそんな病気にかかるなど、
寝耳に水でした。
20代で寿司シェフとして
ニューヨークに来てから、
奥さんと二人三脚、
夜に昼に、猛烈に働きました。
知り合いから受け継いだ
日本食レストラン経営も軌道に乗り、
その年の夏には、
一軒目に近い
ニューヨークのロングアイランドで、
二軒目開店も果たした所でした。
開店も無事すんで、
間もない頃の事です。
体がずいぶん疲れてるな、
働き過ぎかなあ
とは思っていました。
貧血がひどく
車を運転しながら、
眠り込みたくなるような
疲労倦怠感にも
襲われていました。
食欲もあまりありません。
でもまさか、
そんな大病だなんて。
その日も、
そんな体でよく運転して
病院に来たと
医者に呆れられました。
「こっちって、
隠さないじゃないですか、
癌とかでも。」
その日即座に入院。
血液検査、尿検査、骨髄液検査。
結果は、
「間違いなく白血病です」
医者は淡々と告げました。
「俺、死んじゃうんだ」
目の前が真っ暗になりました。
がん告知を受ければ、
気力が挫け、
生きる気持ちが一瞬で
失せてしまう人が多いと言います。
従って今でも
告知をしない
日本の家族や医療関係者がいます。
日本には
『日本にふさわしい
インフォームドコンセント』
という考え方があります。
患者や家族の受容能力がある事、
医療関係者側の告知目的が
はっきりしている事、
告知後の精神的ケアができる事
などが揃わなければ、
告知はすべきではないという考え方です。
反対に、告知を受けない事で
病気そのものの苦しみに加え、
本当の事が語られない
精神的苦しみを
患者、家族、医療関係者が
受けることも否定できません。
幸さんの担当医は、
正確な情報を伝える事で、
治療の選択肢を示す事、
患者も家族もしっかりと取り組み、
避けられないものであるなら
死への取り組みをも
一緒に真剣に考える事を
選んだ先生だったと
言えるでしょうか。
幸さんはそこで、
こんな風に思いました。
「『間違いなく白血病です』
って言ってる医者が、
『いい薬がたくさん出ています、
生存率も上がっています』
とも言ってる。
この先生は嘘を言わない。
この先生を信じてやってみたい」
幸さんの選択は
与えられた選択ではなく、
自分で選んだ選択でした。
ショックを乗り越え、
自分には決定権がある、
治療をするかどうか、
支援をお願いするかどうか、
家族とどう協力していくか。
幸さんは自分で考えて
自分で「選ぶことを選んだ」と
言えると思います。
信頼できる医者に巡り合えたことが
幸いでした。
「僕がちょうど
50歳っていう年齢で、
まだ気力と体力があったっていうのも、
タイミング的に
よかったかもしれません」
とは言え、
今まで無理のきいてしまう
健康体だったばかりに、
保険に入っていない。
幸さんには治療費を払う
健康保険がなかったのです。
アメリカに住む自営業の人が
月々の健康保険料を支払うのは
大きな負担です。
アメリカの健康保険事情、
お聞きになった方も多いでしょう。
国民皆保険の日本と違って、
保険がないまま
重病になってしまった人たちの悲劇は、
ハワイでも多く報道されています。
既往症があると
保険に入る事が出来ません。
放射線治療、
化学療法、
抗がん剤等
まず50万円はかかる、
それに、一体どうやって
そのよく効く新薬代っていうのを
払っていけばいいんだろうか。
幸さんは頭を抱えました。
保険がなければ、
錠剤は一粒3000円相当、
それを4粒
毎日のまなくてはいけないから、
日々一万円以上かかります。
でも、
医者を信じて直そう、
直したいという気持ちが、
多くの人達からの、
協力の手を指し伸ばせることになります。
高校時代からの
スィートハートの奥様
のり子さん、
決してくじけない
明るい性格のパートナーは、
闘病生活でも
強い支えになってくれました。
二軒のレストランも
信頼できる若手が、
奥さんと一緒になって支えてくれました。
二人の子供たち、
病院の医者や看護師
ケースウォーカー、
そして
アメリカ癌協会(Cancer Society)という支援団体。
保険がなくても
いろいろな人が奔走してくれて、
メディケイドという
社会福祉保険制度を
利用することもできました。
「あれがなかったら、
もう僕はとうに死んでます。」
幸さんはこともなげに言うと、
アラモアナの沖で
サーファー焼けした福顔で、
ニッと笑います。
「アメリカって
そういうところが本当にすごいと思う」
発病が分かった次の年
2009年、
お店の常連さんたち、
友人たち、
家族、
サーフィンの仲間たちが
医療費補助の募金集めの
イベントまで
開催してくれました。
娘の通っていた日本語補修校では
生徒たちが
幸さんの為に、
千羽鶴を折ってくれました。
「誰も来ないよ、そんなの」
と思っていたのに、
100人近くの人たちが集まって
幸さんの病気回復を祈って
サポートしてくれたのです。
その思い出は
今でも大切な心の宝です。
「沢山の人に支えてもらいました。」
ニューヨークは、
エキサイティングな場所です。
長年の友人も
贔屓にしてくれているお客さんも
いっぱいいます。
でも…
大病をした後、
幸さんの中で何かが変わりました。
まだ再発の恐れがゼロではないのです。
暖かい所に住みたい、
愛してやまないサーフィンが
一年中できる所にいたい、
日本に近い場所がいい、
そんな気持ちが出てきたのです。
昔からなんとなく
そうなればいいなあと
思っていたことではありました。
命にかかわる体験をした
幸さんにとって、
「いつかしたい事」を、
「今する事」にしてしまう、
これが大切だと
思えるようになったのです。
手先の器用な幸さん、
料理が好きで
その道のプロになりました。
それ以外でも、
大工仕事など
形あるものを作るのも好き。
美しいハワイの海で
大好きなサーフィンをしながら、
サーフボードを作る生活がしたい、
それがハワイのような所でできたら
どんなにいいだろう。
もちろん、不安な気持ちが
なかったわけではありません。
本当にできるだろうか。
でも、いつかではなく、
今できる事をやろうと
思い切った決心をします。
若い頃日本を出て
ニューヨークで
やって来れたじゃないか。
この年で、病気持ち、
家族への責任もある、
変化に不安がないはずはない。
でも、何とかなる、
何とかなってきたし、
何とかする、
そう思った幸さん。
若い頃のあの興奮が
ニューヨークを目指した
あの興奮が、
病み上がりの体に
戻ってきました。
そしてついに、
2016年の1月に
ハワイ移住を果たしました。
昔からの仲間、先輩、友人たちが、
これまた、
よってたかってサポートの手を
差し伸べてくれました。
お医者さんもすぐ紹介状を書き、
息子さんもハワイで同居するために
移動してくれることになりました。
ホノルルですでに
サーフショップをしている
高校時代の親友も
力を貸してくれました。
「僕、こう見えても結構内気で。
そんなに社交的でもないし、
寿司握りながら
お客さんとあまり話す方でもないし」
幸さんが、ちょっと照れたように
言います。
ハワイ移住の夢を叶えてからは、
何時間もかけて
板を貼り合わせ、
ヤスリをかけて、
少しずつ、少しずつ
最高のサーフボードにしていく。
その地味な作業に、
一日の大半を過ごしています。
ハワイ大学に近い
ホノルルの住宅街の一角で、
板に向き合う至福の毎日。
白血病という病気が、
一つの転機となって、
本当にしたいことを実現した幸さん。
大きな青い空の元、
海と波と一つになる
サーファーたちに、
手塩にかけた、
最高のボードを使ってもらいたい。
その姿は、
寿司を一つ一つ握り、
長年ニューヨークのお客さん達に
食べてもらって来た
自信とこだわりのある幸さんの
日本人職人姿と、
重なって見えました。
この記事はWebマガジン「メープルハワイ」に掲載した記事を元にしています」
参考:http://www.kanazawa-med.ac.jp/~yasum/informed-concent.html
ニューヨーク市ラガーディア空港を
午後3時24分に離陸した
US Airways1549便は、
ちょうどジョージワシントンブリッジ上空に
差し掛かった数分後、
航空機エンジンがシャットダウン
という緊急事態に襲われました。
渡り鳥のカナダ鴈の大群が、
エンジンに巻き込まるため起こる
バードストライクが
起こってしまったのです。
2009年1月15日、
冬のニューヨーク市上空を飛ぶフライトの
両エンジンに鳥たちが吸い込まれたため
火災が発生、
操縦が全く不能になるという
稀にみる事故でした
退役空軍パイロットであった担当機長は
155人の乗客乗組員の安全を守るため、
隣のニュージャージー州の空港に
緊急着陸許可を要請します。
しかし数マイル離れた空港までも
行くのは不可能だと判断し、
ハドソン川に緊急着水を試みます。
マンハッタンのミッドタウン、
雪の残る50丁目付近のハドソン川水面に
航空機は奇跡の不時着。
着陸した飛行機には開けたドアから
即座に浸水し始め、
乗客は翼の上で救命具をつけながら
極寒の中で押し合いへし合い、
一刻の猶予も許さない状態でした。
一秒をも無駄にできない緊急事態、
救命ボートが沈没しないよう
フェリーボートや沿岸警備の必死の活動で、
乗員155人は、何と30分以内に
全員無事救助されます。
死人も出ず、
負傷者も少なかっただけでなく、
信じられないような迅速な
救助活動が行われたことで
航空機史上まれに見る
ハッピーエンディング、
「ハドソン川のミラクル」と呼ばれた
事故でした。
さて、
全員無事助かり
映画化までされた事故とはいえ、
メディアの報道とは反し、
155人のサバイバーの中には
事故からトラウマを受けた人々が
多くいました。
墜落寸前の場面を
何度も思い出すフラッシュバック、
不眠、悪夢、
パニックアタック、
ショック状態の継続、
強度の不安症。
中には
仕事を続けられなくなってしまった人、
引きこもってしまった人
飛行機に乗れない人など
その反応は様々でしたが、
いわゆる
心的外傷(トラウマ)後ストレス障害(PTSD)と
呼ばれる症状を呈しました。
皆さんはここまで読まれて
「航空機のニアミス事故だ。
事故に巻き込まれた人が
トラウマになるのは当然だろう」
と思った方が多いのではと思います。
飛行機事故以外でも、
戦争体験のある軍人、兵士、
自然災害で生き残った人々
残酷な犯罪、虐待など
著しい苦痛や生命の恐怖を体験した人は
当然トラウマになる、
自分だってそんな恐ろしい思いをしたら
PTSDになるに違いないと
私達は考えます。
私もそう考えました。
これはアメリカの数字ですが、
人口の50%~60%が人生で何らかの
トラウマを体験すると言います。
でもトラウマ体験者のうち
PTSDに陥る人々は5%~10%。
ただ兵士など
極限の体験をした人では
この数字はもっと高くなります。
ベトナム戦争従軍軍人の
約30%がPTSD障害を持ってしまったとも
読んだことがあります。
ところが、トラウマを体験しても
トラウマ後のストレス障害に
陥らない人について
研究している人達がいます。
上の数字を違う角度から見ると
トラウマ経験者の9割近くが
ストレス障害を持たずに生きていける、
それはどうしてなんだろうというのが
この研究のテーマです。
心的外傷後、
ストレス障害を示す代わりに
むしろ画期的な
人間性成長の飛躍が起こる人がいる。
これを「心的外傷後人間性成長シンドローム」
と言うのだそうです。
英語ではPost-traumatic Growth Syndrome(PTGS)
と呼びます
ノースキャロライナ大学教授の
リチャード・テデッシ教授とその研究チームが
90年代から提唱している概念です。
ライフコーチやカウンセラーをしていると
それぞれの
トラウマや心の苦しみを抱えた方が、
それなりの対処方法を持っている事に
とても印象付けられます。
宗教や信仰である場合もあれば
家族やコミュニティの支えであったり、
人生への態度や心の持ち方である場合も
あります。
航空機事故や自然災害、
家族の死、失業、病気、犯罪など
私達がコントロールできない
人生の厳しい曲球をどう受けるか。
仕事の面からもさることながら、
私にとっても人生の教えにしたい
とても興味のあるテーマです。
自分がトラウマの状況になった時、
または
家族や親しい人が
トラウマで苦しんでいる時、
私達はどうやって
手を差し伸べる事ができるのでしょうか。
ここでまた
上記の「ハドソン川のミラクル」に
かかわった乗客の1人
デイブ・サンダーソンさんに
登場してもらいます。
デイブさんは、たまたま
フライトに乗り合わせていた
乗客の1人でしたが、
普通のビジネスマンです。
かつては、
このメルマガでも
お伝えした事のある
有名なアンソニー・ロビンンズ氏の
セキュリティガードをしていたことも
ある人でした。
デイブさんも他の乗客と同じように
飛行機の緊急事態にショックを受け
生き残るために必死で通路に飛び出し
逃げ口を探しました。
その時なぜか唐突に
亡くなったお母さんが繰り返していた言葉が
頭に浮かびました。
「正しい事をするんだよ。
大丈夫。そうしたら、
神様が必ず助けてくださるからね」
キャビンから頬り出された手荷物が
侵入してくる腰までの冷水に浮かび、
倒れている人や体の不自由な人などの
避難を妨げていました。
デイブさんは頭に浮かんできた
お母さんの言葉を
とっさに実行しました。
「正しい事」をしたのです。
それは人を助けるという事でした。
1人でも多くの人を
機体外に出すために
荷物を懸命に押しのけ移動させ、
通路をクリアにしようとしました。
デイブさんは結局
他の乗客の安全確保をするため、
最後まで残った機長とともに
機内をぎりぎりまで離れなかった乗客の1人でした。
デイブさんが外に出ようとした時には
外の翼はもう他の乗客でいっぱい。
その場所に救助を待つ安全なスペースは、
人を押しのけない限り
一センチたりともありませんでした。
その瞬間機体がガタリと傾き、
そのまま残れば機体とともに
氷点下7度のハドソン川水中に
呑み込まれてしまうのは明らかでした。
決心すると同時に氷の水に飛び込み、
デイブさんは低体温症になりながらも
救命ボート近くまで泳ぎ始めます。
無感覚になった体が
もうこれ以上進めないと思った瞬間
デイブさんは何故か片手を
水面上に伸ばしました。
そしてもう一方の手も。
その時、
夫々の手が二人の人の4本の手によって
ボートまで引き上げられました。
それが誰の手であったか
今でもわかりません。
デイブさんは
「お袋の言う通りだった」
と、今でも母親の言葉を思い出します。
生き残ろうとする事と
他の人を助けようという選択を
同時に体験したのです。
それによって
デイブさんも助けられたのです。
デイブさんは飛行機事故という
トラウマを経験しました。
そんなトラウマはできる事なら
誰だって御免被りたいトラウマです。
ただ、トラウマを受けた後のデイブさんは
自分が劇的に変わったのを感じました。
悪夢やフラッシュバックの代わりに、
お母さんの言葉の意味を
深く体感できました。
事故後も飛行機に乗れなくなる
ということはなく、
むしろ自分は生き残れるぞ
という確固たる自信を
肝に感じました。
仕事は続けても、
それはお金の為だけでなく
この体験を多くの人に伝える事だと思い、
モチベーションスピーカーに
なる決心をしました。
生きている事、人生、
母の智慧などへの感謝が
今でもふつふつと湧いてきます。
あのハドソン川の冷水で凍えた体を
最初に温めてくれたブランケット提供者の
ニュージャージー赤十字社に
感謝を表すため、
スピーカーとして稼いだお金で
800万ドル以上寄付することができました。
テデッシ教授研究グループの言う
心的外傷後人間性成長シンドロームがあり得る事を
デイブさんは自ら実証する事ができたのです。
私達の人生は多かれ少なかれ
チャレンジやトラウマで溢れています。
問題がない人、困難がない家族は
たぶんほとんどいないと思います。
でも、私達には選択肢があるように思います。
デイブさんのお母さんが言い残したように、
正しい事をする、
人を助ける事をする、
そういう選択肢です。
自分に起こってしまった
恐ろしいトラウマに
打ちのめされることなく、
いや、たとえ打ちのめされても
そこから這い上がる。
そうすれば、
私達は助けられるのです。
それが神なのか、
はたまた
フライトで隣に乗り合わせた乗客なのか。
救命ボートの赤十字職員か。
本当のミラクルとは
私達の中にある
この選択肢の事を言っている
のではと
考えさせられたストーリーでした。
この話はトム・ハンクス主演で
「ハドソン川の奇跡」という題名の
映画にもなっています。
「パニック障害」という
脳の病気があります。
予期しない時、突然
呼吸が困難になり、
手足が震え、
心臓がドキドキ、
窒息感、めまい、嘔吐感、
まるで心臓麻痺の前兆のごとき
体の異常を覚えます。
体の異常そのものは
10分程継続するに過ぎないのですが、
何と言っても怖いのは
「このままでは死んでしまう」という
極度の不安感が襲い、
いてもたってもいられなくなるという
症状です。
専門家によると、
発作によって起こる
不安感もさることながらさらに、
また発作が起こるのではないかの
「予期不安」が
多くの患者さんを
外出恐怖や進ませてしまいます。
こうなると
パニック障害と呼ばれる病気に発展します。
うつ病などの病気に
なってしまう事もあるそうです。
パニック発作は、
脳内神経伝達物質間の
バランスが崩れる事により
100人の大人のうち、
2-3人が経験する病気だそうです。
アメリカでは
30代~50代が最も多く経験し、
年間300万人の人がパニック障害に
陥るそうです。
私の所に見えるクライアントさんにも
パニック発作を
経験した事がある人が時々います。
アメリカのABCニュースに
ダン・ハリスさんという人がいます。
このハリスさんが
大手放送ネットワーク就職したのは
28歳の時でした。
優秀で野心家、
さらに大変な努力家のハリスさんは
人が二の足を踏む
イラク、アフガニスタン、
ヨルダン川西側地区など
米国の介入する紛争地区から
従軍ジャーナリストとして
報道を続けていました。
ハリスさんが登場した番組は
「グッドモーニング・アメリカ」
「ナイトライン」など
500万人の視聴者をもつという
メジャーな番組ばかり。
シャープで的を得た
自信を感じさせる報道は
彼を一躍
人気ニュースキャスターにのし上げました。
この若手スタージャーナリストが
あろうことかカメラの前で、
ある日突然
パニック発作に襲われます。
それもたまたま、
テレビの放送中で
ある新薬のリポートをしている
ちょうどその時に起こった事でした。
この時の事をハリスさんはこのように
描写しています。
「心臓がパクパクしてきて
おかしいと思いました。
落ち着け、落ち着けと
自分に言い聞かせてるうち
肺が苦しくて
呼吸ができなくなりました。
それからカラカラに口が乾き、
焦れば焦る程、
手は汗でベトベトに
なってしまいました」
画面の前で、
33歳の新進ジャーナリストは、
どもったり
下を向いたり、
眉間にしわを寄せて
ため息をついたり。
危険な戦場からの報道で見られた
いつもの自信にあふれた様子は
見る影もありません。
新薬についてほどんど何も伝えられず、
何とかその場を取り繕い、
ハリスさんが、
リポートを打ち切ってしまった時の
混乱が今もyouTubeに残っています。
https://www.youtube.com/watch?v=_qo4uPxhUzU
(約一分程のあたりから)
私達の体にはノルアドレナリンという
脳内伝達物質があります。
これは、私達の体や精神が
ストレスを感じる時に
交感神経を刺激するべく放出される
ホルモンの一種です。
ご存知のように交感神経は、
副交感神経とバランスを取りながら
自律神経をコントロールしている
大切な役割を担っています。
ちょうど車の
アクセルとブレーキの関係のように
活動をするときは交感神経、
休息時には副交感神経が放出されて
バランスをとっているわけです。
ただ、
このバランスが
崩れてしまう事があります。
アクセルを踏みっぱなしの状態が
これです。
踏みっぱなしのアクセル加速状態は
一般に言われる
ストレスの多い生活ですね。
ハリスさんは
飛行機に飛び乗っては
戦場を駆け回り、
カメラの前で緊張に次ぐ緊張、
睡眠も削って次のストーリーに挑戦。
イケイケ、ゴーゴーの生活が
まだ30代の体と心でも、
ストレスを蓄積して、
バランスを崩させるのに
十分であったわけです。
さてこのハリスさん。
何百万人もの人が見るカメラの前で
パニック発作を起こしてしまった後
どのようにストレス満載の生活を
立て直したのでしょうか。
パニック発作から
ちょうど十年後、40代になったハリスさんは、
「10% Happier」という本の中で
多動で止まる事のなかった
生活を振り返ります。
それは「頭の中の声」との
折り合い方、付き合い方を
模索したことでした。
両親とも医者の家庭で育ち、
優秀な人生を
スピードで駆け抜けてきたハリスさんは、
ジャーナリストとしての成功で、
エミー賞を受賞、
出身大学から名誉博士号まで受けています。
しかし、そんなハリスさんは
時に耳を覆うような「頭の中の声」を
いつも必死で無視しようと葛藤していた
と言います。
ベッドから起きられない位
そのおしゃべりが
頭の中で大音響になる日もあり、
声を聴かないように
自分の心を閉ざし、
仕事に集中、
ワーカホリックになって
次々と危険な地域に出向いていたのです。
その頭の中のおしゃべりに
じっくり
耳を傾けてみました。
その方法は、単純なこと。
数分の瞑想でした。
雑音を断って
自分の心に浮かんでくる
「声」を客観視してみようとしたのです。
事実報道と科学的実証を
信じるハリスさんにとって
自分がそんなことをするとは
考えも及ばなかった事です。
僕はヒッピーじゃない。
長髪で、ヨガか何かやってる得体の知れない
スピリチュアル妄信者じゃない。
科学で証明されないような
ヘンテコなものは絶対信じない。
あくまで懐疑的であったハリスさんは
瞑想の学術論文を読み漁りました。
ろうそく灯して香を焚いて
「オーム」なんて僕は絶対唱えないぞ
というスタンスで
瞑想を試してみました。
5分だけ、
自分の頭の中の声を聴くだけ。
条件を付けて。
絶対5分だけ。
スマホを見ない。
メールに返事しない。
携帯の音を切って画面を裏返し。
5分だけ。
その5分が終わった時、
不思議なことが起こりました。
頭の中の声が
実は麻薬だったんだなと
気が付いたのです。
その声はいつもこう言っていました。
もっとできるはず、
まだ足らない。
もっと改良できるはず
まだまだ。
もっと努力できるはず
もっと、もっと。
ヘロイン患者が
もっと、もっとと麻薬に手を出すように
その声は、
ハリスさんを批判し、
非難し、
判断し、
コントロールして来ていました。
心の奥にある
もう一つの本当の声が聞こえないように
「頭の中の声」は、
時に大きく、
時にうねるように
頭の中を占領していた事に
気が付いたのです。
しかし、その発見や気づきよりも
ハリスさんを
もっと驚かせたことがありました。
5分だけだったのに、
自分がなんだか
少し落ち着いているように感じたのです。
少し、静かに感じます。
穏やかに、リラックスして、心が軽く感じます。
まさか、
5分で?
まさか。
ストレスが、
ほんの少しだけ緩和されたように思います。
気のせいか‽
僕は少しだけ、
10%だけ、
ハッピーになったように感じる。
どうしたことだろう?
ハリスさんはこの発見が
全く主観的で偶然のもので、
科学的根拠がないものである事を
追及証明しようとします。
ジャーナリストの立場で。
鵜呑みにしないぞというスタンスで。
次の日も5分。
その次の日も5分。
続けているうちに5分では足らない気がして
10分。
15分。
20分。
頭の中の声は
「お前は何やってるわけ?」
と繰り返しますが、
それでも、続けてみたい。
続ける事が楽しくなってきたのです。
それにつれて頭の中の声が
「なんでもいいや」
と弱気になっている事も感じはじめました。
その声が
「まだまだ足らない」
と言わないのです。
いや、言っているのかもしれませんが、
あまり気にならないのです。
その声が
全く消えてなくなることはないにしても、
なんだかその声との付き合い方が
分かってきたように感じてきました。
頑張った方がいいって思っていたんだね、
君は。
もっと努力できるぞって信じたかったんでね、
君は。
努力はするよ、
でも、無理はしない。
頑張るけど、
バランスとりながらかな。
ハリスさんは、
心の中の大人の声が
静かな口調ででも前よりははっきりと、
少しニコニコしながら
言っているのさえ
聞こえてくるようになったのです。
これって、いいね。
僕は僕のままだけど、
10%だけでもハッピー。
これって、なんだかいいね。
10% HAPPIERの本は日本語でも同題で出版されています。
ダンさん10% Happierはアプリにもなっています。